王貞治(1)記録とともに 1月1日 1977年の夏休みの終わり。東京・目黒の自宅前は毎朝、サインを求める子どもと報道陣でごったがえしていた。大リーグの通算本塁打記録であるハンク・アーロンの755号越えが迫り、異様なムードになっていた。 「世界新」と人はいうが、球場も違えば、投手の質も違う。近ごろ話題になる球の違いもあり、単純に数を比べるのはどうかと私は思っていた。チームの優勝争いも正念場を迎えるのにこの騒ぎ。「早く打っていつもの生 王貞治(1)記録とともに
王貞治(2)中華「五十番」 1月3日 父、王仕福は中国の浙江省青田県という地方の山村で生まれた。日本では明治の時代。川の対岸に渡るのにも橋がなく、医者にかかるにはいくつも山を越えなければならない寒村だったという。 20歳を過ぎたころ、仕福は先に来日していた親類縁者を頼って、出稼ぎにきたらしい。東京の向島あたり、今の墨田区に浙江省の人が多いというので、父もそこに落ち着いたようだ。最初は工場勤めだったが、いつしか料理を覚え、母の登美とと 王貞治(2)中華「五十番」
王貞治(3)きょうだい 1月4日 1945年3月10日の東京大空襲では墨田区の下町にあった私の家も焼けた。父の仕福は店を守ると言って残り、母の登美は私を背負い、猛火を逃れてさまよった。空襲がやみ、火勢も弱まったとき、私はぐったりしていた。 一緒に逃げていた姉の幸江が恐る恐る口に手を当てると、ちゃんと息をしていた。熱風の中でも母の背に安心し、熟睡していたらしい。5歳になる年のことだ。 幼いころは病弱で、両親を心配させた。母のおなか 王貞治(3)きょうだい
王貞治(4)中2の秋 1月5日 父、仕福は私が巨人の監督を務めていた1985年に亡くなったが、最後まで浙江省の故郷を忘れず、何度か帰っていた。日中の国交が正常化する前のことで、入出国には神経を使い、それなりの心付けも要ったらしいが、故郷への思いは断ち難かった。 対岸の集落に行くのに大回りしていた川に、父の寄付で橋がかけられたとも聞く。 兄、鉄城と私に人の役に立つ技術を身につけさせ、中国に帰ることが父の夢だった。中国人の子弟に会 王貞治(4)中2の秋
王貞治(5)早実へ 1月6日 本所中学を卒業するとき、東大に何人も行く、地元で一番の両国高校受験を考えたが、担任がちょっと危ないという。そこで旧制の七中といった墨田川高校を仲間2人とともに受けた。ところが合格ギリギリのラインにいた1人だけが受かり、余裕のはずだった私たち2人が落ちた。 人生初の敗北だった。同じ公立の本所高校という選択肢もあったが、ここは女子生徒が多く、私は学問も野球もどっちつかずになる恐れがあると思った。そこ 王貞治(5)早実へ
王貞治(6)甲子園 1月7日 のちに巨人入りが決まって練習に参加したとき、プロの練習はこんなものかと拍子抜けした。それくらい早実の練習は厳しかったが、亡き双子の姉、広子の分を合わせた「二人力」だからか、苦にならなかった。 唯一苦手にしたのは西武線の武蔵関駅からグラウンドまでの1キロ弱の競走だった。電車で一緒になった上級生に遅れてグラウンドに出たら"アウト"というルールがあり、駅からダッシュして着替えて、という借り物競走みたい 王貞治(6)甲子園
王貞治(7)最後の夏 1月8日 1957年、新2年生の春の選抜でマメをつぶしながら、私は3試合連続完封。高知商との決勝に進んだ。休養日なしの4連投だ。私の初回の先制打などで七回で5-0。そんな余裕の展開が八回に暗転した。3点を返され、2死ながら一打同点のピンチ。35イニング目の初失点に動揺していた。 打者はのちにプロ入りする坂本宏一さん。一瞬「しまった」と思ったボール球を振ってくれて助かった。九回は2死一塁からけん制で走者を刺 王貞治(7)最後の夏
王貞治(8)背番号1誕生 1月9日 高三の夏、延長十二回に4点差を逆転されて甲子園への道を断たれた。勝って甲子園に行く明治高を、私が東京駅で見送り、「僕たちの分も頑張って」と激励したことが語り草になっているようだ。 だが、あれはただぼーっとしていたときに野球部長の箱岩徹先生に「もう終わったんだ。相手を祝福しよう」と誘われてついて行っただけで、美談といえるかどうか……。 放心状態のなか「野球でやり残した」との思いは日増しに強くなり、 王貞治(8)背番号1誕生
王貞治(9)プロ1年目 1月10日 1959年2月1日、寝台急行「高千穂」で巨人のキャンプ地の宮崎に向かった。卒業試験のため、先輩たちから遅れての出発だ。ボストンバッグ二つにバットケースが二つ。それが全財産だった。 契約金1800万円、月給12万円。高校卒業選手としては破格の条件だったが、契約の手続きなどは両親や叔父に任せていて実感はなかった。 寝台で隣り合わせた人たちに「がんばれよ」と声をかけられた。怖い物知らずの18歳には重圧 王貞治(9)プロ1年目
王貞治(10)天覧試合 1月11日 ルーキーイヤーの1959年、6月25日の巨人―阪神11回戦はプロ野球初の天覧試合となった。前日まで打率1割6分9厘、3ホーマーの低空飛行だったけれど、「6番一塁」で先発起用された。 戦後70年になろうという今では想像できないほど陛下のご臨席は畏れ多かった。貴賓席に顔を向けるのもはばかられ、一塁を守りつつ、投球の合間にちらちらとみやった。 スタンドの売り子さんも声を静め、おごそかなムードで始まった 王貞治(10)天覧試合