佐藤賢一「王の綽名」 「赤髭帝」神聖ローマ皇帝 カバーストーリー 6月25日 ドイツ王、イタリアにご執心 フリードリヒ1世はシュヴァーベン大公だったが、1152年、叔父コンラート3世に後継者に指名されて王になり、さらに55年、ローマで戴冠式を挙げて皇帝になった。ホーエンシュタウフェン朝の2代目ということだが、その綽名(あだな)が「バルバロッサ」である。「バルバ」が「髭(ひげ)」で、「ロッサ」が「赤」なので、つまりは「赤髭帝」だ。ドイツ人、あるいはゲルマン系というのが正しい 佐藤賢一「王の綽名」 「赤髭帝」神聖ローマ皇帝
佐藤賢一「王の綽名」 「修道士王」アラゴン王 カバーストーリー 6月18日 俗世嫌いが思わぬ僥倖(ぎょうこう) レミーロ2世(在位1134~37年)はアラゴン王サンチョ・ラミリスの第3子である。父の後を継いだのが長兄ペロ1世だが、統治10年で亡くなり、子がなかったので、今度は次兄アリフォンソ1世が継いだ。これが「戦士王」と綽名(あだな)される王で、戦いに次ぐ戦い、勝利に次ぐ勝利で、アラゴンの国威を大いに高揚させた。が、またも子がなかった。のみか死後は王国をテンプル騎士団 佐藤賢一「王の綽名」 「修道士王」アラゴン王
佐藤賢一「王の綽名」 「戦士王」アラゴン王 カバーストーリー 6月11日 29回の戦いに勝利の騎士 イベリア半島は8世紀、北アフリカから侵攻してきたイスラム教徒に奪われた。以後、その「国土再征服(レコンキスタ)」=スペイン中世史になる。キリスト教徒は北から反撃、地歩を南に拡大していくが、その起点は実は2つあった。一方がスペイン北西だ。滅ぼされた西ゴート王国の残党が、大西洋岸のアストゥリアスに建てた国で、レオン、カスティーリャと拡大、そのカスティーリャ王国の名前でスペイ 佐藤賢一「王の綽名」 「戦士王」アラゴン王
佐藤賢一「王の綽名」 「勇敢王」カスティーリャ王 カバーストーリー 6月4日 イスラムから国土再征服 カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位1072~1109年)は「勇敢王」の綽名(あだな)で歴史に残る。スペイン語で「エル・ブラボー」、つまりは英語の「ザ・ブレイヴ」なので、「勇敢王」の訳は妥当だろう。痺(しび)れる響きだが、実をいえば、ありきたりな憾(うら)みがある。 中世ヨーロッパの王といえば、まずもって武人、武将であり、勢い武勲や武勇を称(たた)える綽名は多い。ことさ 佐藤賢一「王の綽名」 「勇敢王」カスティーリャ王
佐藤賢一「王の綽名」 「文人王」ハンガリー王 カバーストーリー 5月28日 頭脳明晰 処断は苛烈 カールマーンはハンガリー王ゲーザ1世(在位1074~77年)の長子である。が、父王が没しても、次の王にはなれなかった。即位したラースロー1世(同77~95年)は父の弟で、カールマーンからすれば叔父になる。9世紀、ウラル山脈にいたマジャル人をハンガリー平原に率いてきた大首長がアールパードで、その子孫がハンガリー大公、さらに王になるので、アールパード朝を称していたが、アジア由来 佐藤賢一「王の綽名」 「文人王」ハンガリー王
佐藤賢一「王の綽名」「征服王」イングランド王 カバーストーリー 5月21日 不屈の精神でハンデ克服 1066年9月28日、ノルマンディ公ウィリアムが海を渡り、イングランドに上陸したのは、この国の王になるためだった。前王エドワードは「証聖王(ザ・コンフェッサー)」の綽名(あだな)通り信仰一途(いちず)で、それがすぎたか、王妃エディスはいたが、子はなく死んだ。父親がデンマーク王スヴェン、ついでクヌーズに王国を奪われた「不用意王」のエセルレッドで、幼いエドワードは公家が母親エ 佐藤賢一「王の綽名」「征服王」イングランド王
佐藤賢一「王の綽名」 「聖大公」キーウ大公 カバーストーリー 5月14日 スラヴ世界のルーツに 王というが、大ブリテン島やスカンディナビア半島のように、小国の主でも王と呼んだ地域があるかと思えば、広大な領土を治めているのに、その君主は公や大公でしかなかった地域もある。東スラヴ人の国家、キーウ公国、後に大公国もそのひとつだ。そのリューリク朝だが、始祖となったリューリクはノルマン人で、つまりはヴァイキングだった。最初は北方、バルト海から内陸に入るノブゴロドに拠点を構えたが 佐藤賢一「王の綽名」 「聖大公」キーウ大公
佐藤賢一「王の綽名」 イングランド王「殉教王」 カバーストーリー 5月7日 死後に奇蹟 崇敬の対象に 大ブリテン島はローマ帝国の崩壊このかた、小さな部族国家が濫立(らんりつ)していた。5世紀には大陸からアングロ・サクソン人が渡来、新たな支配者となったが、分立状態は6世紀まで変わらなかった。それが7世紀に入ると、20くらいにまとまる。8世紀から9世紀にかけては、ノーサンブリア、イースト・アングリア、エセックス、ケント、マーシア、サセックス、ウェセックスの「七王国(ヘプター 佐藤賢一「王の綽名」 イングランド王「殉教王」
佐藤賢一「王の綽名」 「合羽王」フランス王ユーグ カバーストーリー 4月30日 王冠より僧服が似合う奴 王は血統か、実力か。西フランク王国では9世紀から、血統でカロリング家から王が出たり、実力でロベール家から王が出たりが繰り返された。が、それも10世紀にはルイ4世、ロテール、ルイ5世とカロリング家の王が続き、血統で決着したかにみえた。ロベール家のほうの当主がユーグだったが、これが率先してカロリング家の王を立てていたのだ。自分で王になり、厄介事ばかり背負わされるより、陰の実 佐藤賢一「王の綽名」 「合羽王」フランス王ユーグ
佐藤賢一「王の綽名」 東フランクの「捕鳥王」 カバーストーリー 4月23日 暴れ者の部族が支配者に フランク王国というのは、ゲルマン民族の大移動でヨーロッパにやってきた諸部族のひとつ、フランク人が5世紀の終わりに建てた国である。王家がメロヴィング朝からカロリング朝に変わったのが8世紀で、ほどなくローマ皇帝の位まで手に入れて、帝国を称するようになったが、フランク人の国であることに変わりはなかった。帝国または王国は9世紀から、中フランク王国、東フランク王国、西フランク王国に 佐藤賢一「王の綽名」 東フランクの「捕鳥王」