鈴木敏文(1)文豪との日々 常識打破が仕事の原点 東販時代、広報誌を改革 4月1日 目の前で大作家の谷崎潤一郎さんと女優の淡路恵子さんが楽しげに談笑している。場所は銀座東急ホテルの一室。1962年(昭和37年)の夏のことだ。 そのとき、私は29歳。出版取次大手の東京出版販売(現トーハン)の弘報課に勤務し、『新刊ニュース』という隔週刊の広報誌編集を任されていた。 出版取次業の強みで版元を通せば、たいていの作家や文化人に登場願えた。谷崎翁もあまりメディアに出ていなかったが、中央公論 鈴木敏文(1)文豪との日々
鈴木敏文(2)研究所に配属 統計と心理学猛勉強 経営の基礎培った「大学院」 4月2日 東京出版販売(現トーハン)には1956年(昭和31年)4月に入社した。翌月の社内運動会。私は高校時代の陸上選手経験を買われて100メートル走に出場し、11秒8の社内新記録を樹立。会社の陸上部に誘われ、入部する。 一方、仕事では地味な実地研修をこなす毎日が続いた。最初の部署は返品係だ。書店から返品される本を仕分けし梱包して版元に送る。次は店売係。直接本を買いにくる近隣の書店の対応をする。どちらも出 鈴木敏文(2)研究所に配属
鈴木敏文(3)長野の旧家 厳しかった母のしつけ 間違ったことは許さない 4月3日 長野県東部、千曲川が流れる盆地の町、埴科(はにしな)郡坂城(さかき)町で、私は1932年(昭和7年)、両親の9番目の子として生まれた。鈴木家は15代続く地主の家系で、厚い茅葺(かやぶ)き屋根の母屋は当時すでに築200年以上たっていた。 土蔵や作業小屋なども6、7棟あり、防火用に屋根が二重になった土蔵には槍(やり)や鎧(よろい)も残っていた。昔は敷地内に20棟近く建っていたという話だ。農業、養蚕業 鈴木敏文(3)長野の旧家
鈴木敏文(4)面倒見良い父 地元名士、頻繁に集う 敗戦・農地解放…子供心に不安 4月4日 私が生まれたとき、父、甚四郎は46歳だった。日露戦争中に多感な10代を送り、旧制中学卒業後、志願して軍隊に入ったまじめで一本気な性格。退役後は農協組合長や坂城町長などの公職を務めた。 家には頻繁に地元の政治家や名士が集まる。議論好きの信州人たちは決まって夜遅くまで話し込む。面倒見のよい父はだれかれとなくよく相談に乗っていた。 厳格な父親だったが、私は女の子が5人続いた後の男子だったためか、父には 鈴木敏文(4)面倒見良い父
鈴木敏文(5)あがり性 口頭試問で受験失敗 性格変えようと弁論部へ 4月5日 終戦を迎える年の春、私は旧制上田中学(現上田高校)の受験に失敗する。学校の成績は悪くなく、私が落ちるとは誰も思わなかった。原因は極度のあがり性にあった。 口頭試問であがってしまい、何も答えられない。一緒に受けた仲間から「なんであんな簡単な質問に答えられないんだ」とあきれられた記憶が今も残る。 小学校の高等科に1年間通い、翌年また受験の季節。戦時中は中学から陸軍士官学校へ進むのが男子あこがれのコー 鈴木敏文(5)あがり性
鈴木敏文(6)蚕業高校 歓迎の辞で痛恨のミス 英語劇・映画館通い おう歌 4月6日 生徒会長を務めた高校時代の、とある失敗が脳裏にこびりついている。新入生を迎える入学式でのことだ。在校生を代表して「歓迎の辞」を述べたときのことだ。 席に戻るとみんながざわついている。聞けば、私が「歓迎の辞」と結ぶところを「送辞」と言っていたという。卒業式で送辞を読んだすぐ後だったのでつい間違えたようだ。「送辞」では入学したばかりなのに送り出してしまう。新入生には申し訳ないことをしたと、今も悔いが 鈴木敏文(6)蚕業高校
鈴木敏文(7)中央大学へ 政治家志望、国会通い 学生運動経験、黒幕のあだ名 4月7日 漠然と政治家を志望し、1952年(昭和27年)中央大学経済学部に入学。初めは下宿と学校と国会かいわいを行き来する毎日だった。 恵比寿の賄い付きの下宿から弁当を持って、御茶ノ水にあった大学へ通う。授業の合間には喫茶店にも映画館にも入らず、国会を傍聴したり、議員会館に寄って、井出一太郎さんや増田甲子七さん(元防衛庁長官)ら、長野県選出で父と親交のある政治家の部屋に顔を出す。 今から考えれば奇妙な学生 鈴木敏文(7)中央大学へ
鈴木敏文(8)青春の日々 5大学ゼミで鍛える 株式投資で小遣い稼ぎ 4月8日 全学自治会の書記長を退いた後、3、4年生のときは、入会したままあまり活動に参加できずにいた「経済学会」ゼミで近代経済学の勉強に力を入れた。 東京大、一橋大、早稲田大、慶応大、中央大の学生たちで主宰する5大学のインターゼミにも積極的にかかわった。各大学が持ち回りで研究会を開く。レベルが高く大学の試験の方が楽だった。このときの仲間が社会に出てからも力になってくれることになる。 恵比寿の下宿は代々信州 鈴木敏文(8)青春の日々
鈴木敏文(9)結婚と転職 独立プロ作るつもりで ヨーカ堂入社、すぐに後悔 4月9日 東京出版販売(現トーハン)では、出版科学研究所での調査活動や弘報課で広報誌『新刊ニュース』を刷新した経緯は初めに述べた。 大学時代に始めた株式投資は東販入社後も続けたが、中央大同期の信州人で不動産業に進んだ小笠原英一君と組んでこんな副業もした。 宅地化が進む東京近郊で、手金を打って農地の権利を確保。宅地に用途変更されたら転売する。3-6カ月で3割ほど地価が上がるので結構サヤを稼げる。会社勤めの身 鈴木敏文(9)結婚と転職
鈴木敏文(10)新卒採用 全国の高校駆け回る 知名度向上へ懸賞作文発案 4月10日 イトーヨーカ堂は伊藤雅俊・現名誉会長の叔父、吉川敏雄さんが大正9年に創業した洋品店羊華堂に始まる。のれん分けで店を持った兄の譲さんが急逝し、伊藤さんが引き継ぎ1958年(昭和33年)株式会社ヨーカ堂を設立した。 入社したのはチェーン展開を始めて3年目。旗艦の千住店以下5店舗、従業員500人、新興スーパーとして成長途上にあった。同じく新天地を求めた東販の元上司と一緒に移った。 忘れもしない63年9 鈴木敏文(10)新卒採用