中嶋常幸(1)プロ生活45年 A・パーマーに憧れて 今年で65歳、後進育成にも力 私の履歴書 7月1日 コースは雨に煙っていた。2017年4月、米ペンシルベニア州ラトローブ・カントリークラブ。マスターズ・トーナメントの解説でジョージア州オーガスタに行く前週、私は前年9月に87歳で亡くなったゴルフ界の「キング」アーノルド・パーマーのホームコースを訪ねていた。 同CCは父・ディーコンさんがグリーンキーパーを務め、後にパーマーが買収したゴルフ場で、パーマーの亡きがらが上空からジェット機で散骨された。クラ 中嶋常幸(1)プロ生活45年
中嶋常幸(2)家族 暴君の父と耐え忍ぶ母 少年時代は自然児、山川で遊ぶ 私の履歴書 7月2日 私の故郷は絹織物で名高い群馬県桐生市。昭和29年(1954年)10月20日に父・巌、母・ナミ子の長男として生を受けた。父は「スパルタおやじ」として有名だが、名は体を表し、大きな巌のように立ちはだかる暴君だった。おやじが「カラスは白い」と言ったら白。「かかあ天下と空っ風」で知られる土地柄なのに、母が口答えをしたことは一度もない。手を上げられてもひたすら耐え、家中に吹き荒れる嵐が収まるのを待つだけだ 中嶋常幸(2)家族
中嶋常幸(3)ゴルフに熱中 父が手ほどき 楽しい時間 「天才少年」地元では有名人 私の履歴書 7月3日 1957年のワールドカップ(埼玉・霞ケ関CC)で中村寅吉さんが個人・団体優勝を果たし、第1次ゴルフブームが巻き起こった。数年後には地方にも波及。"発明"好きな父・巌は、ボールが自動的に出る練習器具までつくった。 自宅の庭先にネットを張り、試打する姿を見て興味を覚え、留守の時に3番アイアンでボールをひっぱたいていた。いつの間にか家に戻った父に怒られるかと思ったら「やってみるか?」。小学4年の私は即 中嶋常幸(3)ゴルフに熱中
中嶋常幸(4)スパルタおやじ 鉄拳制裁は日常茶飯事 高校中退、「逃げ場」なくし後悔 私の履歴書 7月4日 中学3年で出た全日本ジュニア選手権(8月、埼玉・嵐山CC)は中1から高3までが同じティーから競う試合だった。「中学生では1番にならないと」。ぶるぶる、ワクワクする独特の緊張感を味わいながら79、78で回り中学生ではトップの7位。同い年の藤木三郎選手が8位だった。 中学日本一はうれしかったのに、父の顔を見ると全く喜んでいない。優勝者とは7打差で、上には6人もいる。真剣勝負を間近で見た父の心にも火が 中嶋常幸(4)スパルタおやじ
中嶋常幸(5)アマ時代 「ゴルフで生きていけたら」 72年に初のプロ試合、見えた道 私の履歴書 7月5日 リベンジを期した高1の全日本ジュニアは3位。上の2人は上級生だから、階段を着実に上っている気持ちがあったが、父は「なぜ勝てなかったんだ」と言って、どんどんプレッシャーをかけてきた。 私にとって、全日本ジュニアはビッグイベント。そこで、アマチュア日本一を争う「日本アマ」という大きな試合があるのを知った。ふつうは、日本ゴルフ協会加盟コースのメンバーになってハンディキャップを取得、予選大会に出るのだが 中嶋常幸(5)アマ時代
中嶋常幸(6)自殺未遂 家計の負担いたたまれず 「情けない」父の言葉に奮起 私の履歴書 7月6日 昔はゴルフは「ブルジョワのスポーツ」と言われていた。ところが、わが家は裕福ではない。父は借金を抱え、家も土地も自分のものではなかった。ひもじい思いや、貧しさは感じなかったけれど、刺し身はぺろっと一切れを口に入れるのではなく3等分に切り分けて食べたり、山で自然薯(じねんじょ)や山菜を採っておかずにしたり。生活は質素だった。 全日本パブリックに優勝する前は関東近辺で日帰りの試合が多かったが、日本アマ 中嶋常幸(6)自殺未遂
中嶋常幸(7)プロ転向 デビュー戦 妻との出会い 42位、甘く見ていた自分戒め 私の履歴書 7月7日 74年日本オープンのローアマでひと区切りをつけ、父に「プロになりたい」と訴えた。わが家では経済的に限界だと感じたからだ。父にすれば、アマとしてプロの試合に勝ってほしかっただろう。ちょっと寂しそうに「わかった」とうなずいた。 年内にプロ転向を表明。翌年5月のプロテスト(茨城・セントラルGC)では5アンダーのトップで難なく合格、尾崎健夫選手ら同期生は「七人の侍」と言われた。当日は尾崎将司選手が「スー 中嶋常幸(7)プロ転向
中嶋常幸(8)初優勝 1日3000発 実った猛練習 2年目で結婚、日本プロ制覇 私の履歴書 7月8日 プロデビュー年でとにかく勝たなきゃいけない、優勝するのは、自分の使命だと思っていた。シーズンオフには2時間で1000発という猛練習を重ねていた。ティーに次々ボールを乗せてもらい、20~30球連続で打つと1、2分休んでまた打つ。その繰り返し。午前中に2回、午後に2、3回行い、1日3000発くらいは打っただろう。試合もあるので毎日というわけではないが、17歳から1日3000発以上、ボールを打っていた 中嶋常幸(8)初優勝
中嶋常幸(9)メジャー初挑戦 13番で「13」大たたき記録 屈辱、「井の中の蛙」と痛感 私の履歴書 7月9日 デビューした1976年の賞金ランク17位から、2年目は5位に上がった。23歳の若さでの活躍が評価されたのだろう。招待状が届き、78年のマスターズ・トーナメントに海外メジャー初挑戦することになった。誰もが憧れる大舞台だ。父も私も小躍りした。 米ツアーに出るのは初めてではなかった。前年の日本プロ優勝後、ミズノと契約していたジョニー・ミラーの指名を受け、米フロリダのダブルス戦に出場、いい働きをしていた 中嶋常幸(9)メジャー初挑戦
中嶋常幸(10)父からの独立 スパルタ指導 感じた限界 身重の妻連れ家出、新生活へ 私の履歴書 7月10日 マスターズで打ちのめされたが、海外挑戦をあきらめようとは思わなかった。全英オープンには現地予選がある。英国に飛んで2日間戦い、8人によるプレーオフに残った。欧州の夏は日が長い。「夜8時に来い」と言われ、ホテルに戻って出直した。練習ラウンドからパーも取れなかった苦手なスタートホール。2オンしたけれど、左右S字に曲がる厄介な15メートルのラインで4メートルショート、パーパットも打ち損じた。「あっ、ダ 中嶋常幸(10)父からの独立