奥正之(1)合併 単独では生き残れない 銀行苦悩の30年、なお自問自答 私の履歴書 4月1日 ちょうど20年前の夏になる。1999年8月19日。東京・神楽坂の割烹(かっぽう)「おく瀬」の奥座敷で、私は正面に座った男の出方をうかがっていた。 彼はアルコールを一切口にしないが、愛煙家だ。私はたばこを吸わないが、父方の実家は造り酒屋である。嗜好からして異なる2人がのちにコンビを組み、三井住友フィナンシャルグループ(FG)を率いることになるとは、このときは知るよしもない。 偶然この日に設定してい 奥正之(1)合併
奥正之(2)両親 ダイキン井上会長との縁 父同士が大学同期生と知る 私の履歴書 4月2日 ご出身はどちら? 初対面で問われるたびに決まってこう答える。「生まれは信州上田、出身地は京都です」 奥正之(2)両親
奥正之(3)戦争 生かされたものの責務 昭和の家族、悲劇を語り継ぐ 私の履歴書 4月3日 「正之は母さんの弟たちの生まれかわりかもしれへんね」。幼い私に、母がこう語りかけたことがある。 奥正之(3)戦争
奥正之(4)上田 霧隠才蔵に スケートに わんぱく三昧の小学校時代 私の履歴書 4月4日 JR上田駅から北に伸びるなだらかな坂を上ると太郎山の麓に台地が広がる。その中心部の旧馬場町に私の生家はあった。 奥正之(4)上田
奥正之(5)京都へ トラの牛若丸に憧れて 関西文化にこってり染まる 私の履歴書 4月5日 1950年、秋も深まった頃だった。母に連れられ、5歳の私は初めての長旅に出た。上田から汽車で篠ノ井、名古屋を経由して、大阪の茨木にある母の実家の礒島家に里帰りするためだ。 途中、田毎の月で有名な姥捨(うばすて)山を通過した際に、俗にいう「灰縄千束」の民話を聞かせてくれた。「僕は母さんを大切にする」。思わず母の手を握りしめた。 この旅が私の第二の故郷、京都との出会いとなる。当時は木造だった国鉄京都 奥正之(5)京都へ
奥正之(6)洛星 男子校に放り込むべし 1秒の遅刻さえ許さぬ神父 私の履歴書 4月6日 1957年(昭和32年)の春、私は中高一貫のミッションスクールである洛星中学校(京都市北区)に進んだ。 奥正之(6)洛星
奥正之(7)青の時代 無力感と後悔 受験失敗 文転し合格、ワンゲルと出会う 私の履歴書 4月7日 1960年6月、高校1年生の私は京都の南座で歌舞伎を観(み)ていた。演目は二代目實川延二郎が狐忠信を演じる「義経千本桜」の川連法眼館の場面。京都ならではの贅沢(ぜいたく)な課外学習だ。 幕間の休憩時間のときだった。外が妙に騒がしい。3階の窓から下をのぞくと、四条通で警察隊と学生のデモ隊が衝突していた。今では歌舞伎好きだが、当時は延二郎の華麗な身のこなしや早変わりより、眼下の激しいぶつかり合いに興 奥正之(7)青の時代
奥正之(8)京大 大内君、待っていてくれ 亡き親友と再びうまい酒を 私の履歴書 4月8日 キャンパスまで自宅から自転車で15分足らず。1964年4月、私は近くて遠かった京都大学の法学部に進んだ。 奥正之(8)京大
奥正之(10)調査第二部 兄の死を思い 自らを鼓舞 ニクソン・ショックで徹夜続き 私の履歴書 4月10日 1971年5月、本店の調査第二部へ異動した。希望どおりの部署だった。だが初の本店勤めに緊張が高まった。 奥正之(10)調査第二部