五百旗頭真(1)阪神・淡路大震災 災害対応 第二の仕事に 教え子の死 できることは 私の履歴書 2月1日 ガーンと体ごとはね上がる大衝撃をくらい、眼を覚ました。飛行機が墜落したのか、山津波か…。次の瞬間、猛烈な揺れ。 五百旗頭真(1)阪神・淡路大震災
五百旗頭真(2)震災後 広島に「疎開」 優しさに涙 復興へ 国費投入に政府の壁 私の履歴書 2月2日 「この地に大地震はない」。安全神話にまどろんで、備えなく大自然の奇襲攻撃を受けた兵庫の地であった。電気も電話も切れ、県庁は昼近くまで情報ブラックアウトに陥った。政府に被災を伝えることもできず、自らの地に何が起こっているかすらも分からなかった。唯一生き残った幹線道路の国道2号線に車が殺到し、交通は麻痺(まひ)、自衛隊もその日は被災地へ十分に入れなかった。 首相官邸はどうか。国土庁を軸とする官邸情報 五百旗頭真(2)震災後
五百旗頭真(3)8人きょうだい 大国に囲まれた小国の感 米粒争い 兄にはかなわず 私の履歴書 2月3日 私は大戦末期の1943年(昭和18年)12月、兵庫県西宮市に生まれた。阪急電車を夙川(しゅくがわ)駅で乗り換えるとすぐ苦楽園口駅に着く。駅から西へ徒歩3分、田んぼの中に私の生まれ育った家があった。 東の夙川沿いには、子どもの頃に桜が植えられたが、松林がそびえ、台風の時などゴーゴーとうなり声をあげた。北には甲山(かぶとやま)がこの地を見守るように単独峰をなし、西には芦屋六麓荘の背後にゴロゴロ岳の山 五百旗頭真(3)8人きょうだい
五百旗頭真(4)一族 学者の父、欧州に10年 先祖は宮大工や技術官僚 私の履歴書 2月4日 五百旗頭姓の由来についてよく聞かれる。徳川時代には姫路藩士だった。本家に残る「永代過去帳」には18世紀初めの三代目以降の家系図が記されている。「藩の度量衡の検査監督を一家にて司り」と父が書き残したように、藩の技術官僚であった。 少し遡って戦国時代、黒田官兵衛の父職隆が「五百旗頭宗左衛門を大工棟梁(とうりょう)」に任じ、総社の拝殿、表門を再建したと「姫路城史」にある。一族は宮大工として身を起こし、 五百旗頭真(4)一族
五百旗頭真(5)子どもの頃 「ノーパンじゃない」 病で休学 負けん気は人一倍 私の履歴書 2月5日 真っ黒な甲斐犬のクロは無二の親友だった。ほぼ放し飼いのクロは遠くにいても私が呼べば草むらを二つに分けて突進し飛びついた。強くて、大きな犬とケンカしても負けなかった。精悍(せいかん)過ぎ、よそ様に迷惑をかけもしたが、私が困ったのは、時に私の靴を夜中くわえて行くことであった。 私には靴は一足しかなかったので、見つからないと裸足(はだし)で登校する他なかった。「はだしのゲン」はヒロシマだけの現象でなか 五百旗頭真(5)子どもの頃
五百旗頭真(6)六甲学院 強歩会で3連覇 自信に 真剣に議論する師を敬愛 私の履歴書 2月6日 中高時代は神戸市灘区の六甲学院に通った。阪神間にあっても、灘(なだ)や甲陽学院のように東大や京大に大量入学する名門進学校ではなく、イエズス会のミッションスクールで、独自の人間教育を特色としていた。 武宮隼人初代校長が六甲精神なる校風を確立した。それは、海軍モール(飾緒)風の制服に象徴される軍人的もしくはスパルタ的厳しさと、狭い己を超えて大いなるものを求めよ、移ろう現象の奥にある永遠なるものを見よ 五百旗頭真(6)六甲学院
五百旗頭真(8)京大大学院へ 実証的歴史家への一歩 石原莞爾の調査で庄内へ 私の履歴書 2月8日 人は自分の職業をどう決めるのだろうか。私は学者の道を歩んだが、それは父が学者で、その家庭に育ったから。しかし、8人の子どもの中で、学者になったのは次男の博治と五男の私だけである。4分の3は別の道を歩んだ。 大学4回生の情景をまざまざと思い出す。私は猪木正道教授のゼミに属したが、先生は夏休みを前にしたゼミの終わりに、各自の就職活動状況を聞きたいと言われた。私は緊張した。社会に出て働く前に、もう少し 五百旗頭真(8)京大大学院へ
五百旗頭真(9)広島大へ 荒れる京大 離れ就職 団交に負けぬ学長に驚き 私の履歴書 2月9日 「石原莞爾と満州事変」についての修士論文に取りかかった頃だったろうか。猪木先生がある日突然言われた。「いおきべ君、こんな大学院に長くいたら駄目ですよ。早く就職した方がいいです」 政治学分野の大学院は6人が同年同室で、4人は民青系、1人が全共闘系で、ノンポリ(非左翼系)は私一人だった。多勢に無勢で時にいじめられがちなことを先生は耳にされたのだろうか。 ただ、父を見て育った私にとって学者の道は貧乏を 五百旗頭真(9)広島大へ
五百旗頭真(10)占領研究へ 教授の計らいで渡米 公文書館で原資料を調査 私の履歴書 2月10日 広島大学に落ち着くと、私は修士論文に続けて石原莞爾の研究を進めた。軍事指導者としての石原の背後にある日蓮宗教と世界観、庄内藩の歴史と支那観、そして東亜連盟運動などについて論文を書いた。しかし、研究は資料面で行き詰まった。 参謀本部をはじめ軍内での石原の記録が研究には不可欠であるが、多くの関係者にインタビューしても軍内の中枢部分が分からない。防衛庁戦史室(現防衛省防衛研究所戦史部)に原資料を求めた 五百旗頭真(10)占領研究へ