石原邦夫(1)気付けば表舞台 平凡でも激動乗り越え 一生懸命歩み結果に楽天的 私の履歴書 1月1日 自分のように平凡な人間の歩みを、たくさんの読者の皆さんにお伝えすることに戸惑いながら、この原稿を書き始めている。スリル満点の人生の創業者でも、世に広く知られたスポーツ選手でも芸術家でもない。しかも平成最後の年の正月の連載だ。 波瀾(はらん)万丈とは言えないが、それでもふり返ると、いくつかの大事な局面に立ち会ってきた。思い出すのは節目のたび、記者会見に臨む自分の姿だ。そもそも保険は社会のインフラで 石原邦夫(1)気付けば表舞台
石原邦夫(2)満州に渡った両親 鉱山事業で8年間駐在 立派な社宅で日本式の食事 私の履歴書 1月3日 両親がどのようななれそめなのか、直接聞いたことはない。ただ母方の伯父が記したものによると「妹のさちが、またいとこの石原紫朗と結婚した。紫朗は東京商科大(現一橋大)の時代からさちに求愛し、結婚した」とある。どうやらプロポースは大学時代。私の記憶にある父は口数の多くない人だったが、大学では弓道部主将を務めたことから見ても、けっこう情熱家だったのかもしれない。 父の紫朗は1904年(明治37年)、母の 石原邦夫(2)満州に渡った両親
石原邦夫(3)奈落の底の1年 ソ連侵攻、自決用に毒物 帰国、一家はいったん二手に 私の履歴書 1月4日 朝日ジャーナル元編集長の下村(旧姓山田)満子さんは私より5歳年上だ。父親同士が会社の同僚で、2人とも幼いころ、旧満州(現中国東北部)に住んでいた。ただ2歳で満州から引き揚げた私に当時の記憶はない。下村さんとは旧知の仲なので、この連載のために話を聞こうとすると、いきなり「『私の履歴書』でしょ」と突っ込まれた。 両家が住んでいたのは、日系企業「満州鉱山」の社宅。家族同士の仲が良く、ずいぶん下村さんに 石原邦夫(3)奈落の底の1年
石原邦夫(4)東大に現役合格 病気がち、文化系に関心 友から刺激、家では勉強励む 私の履歴書 1月5日 この原稿を執筆するため、子どものころの文章を探していて、小学校3年生のときに書いた作文を見つけた。そこには「おぼんなのにおはかまいりもしないので、しんだおねえさんが、さびしいことでしょう」とあった。 「おねえさん」とは、早世した姉の「耀子」のことだ。私が旧満州(現中国東北部)で生まれる前、5歳にならないうちに亡くなっており、私は生まれた時から一人っ子だった。墓があるのは両親の故郷の水戸。東京に住 石原邦夫(4)東大に現役合格
石原邦夫(5)ガラッパチ源さん 入社時、豪快さに驚く 大学時代は書道に打ち込む 私の履歴書 1月6日 1962年(昭和37年)、東大文科1類に入学し、法学部に進んだ。選んだゼミは行政法。確たる成果はなし。東京海上に入社し、新種の保険を担当したときの猛勉強に比べるとはなはだ印象が薄い。ただ論理的思考を学んだことは後に生きたように思う。 高校までと違ったのは、書道という本気で打ち込むものを見つけたことだ。母の実家は水戸徳川家の「奥右筆」だった。主に殿様や奥方の文書を代筆する仕事で、幕末は徳川斉昭公夫 石原邦夫(5)ガラッパチ源さん
石原邦夫(6)新人時代 昼休みに会議室で卓球 リポートに悪戦苦闘し自信 私の履歴書 1月7日 1966年(昭和41年)、東京海上に入社した。最初の3カ月は、都内の新橋営業所に仮配属になった。 石原邦夫(6)新人時代
石原邦夫(7)3億円事件 対応商品の開発に従事 専門書で猛勉強、大学訪問も 私の履歴書 1月8日 入社から3年目の1968年、いよいよ商品開発に関わるようになった。異動先は東京営業第二部業務課。顧客からの要望を受け、営業と一緒に商品のアイデアをまとめ、開発の本丸である火災新種業務部に提案するのが仕事だ。 醍醐味は世の中が変化したり、大きな出来事が起きたりしたとき、新しい商品を考えることだ。同年の3億円事件はその象徴。現金輸送車が積んだ大金を、偽の白バイ隊員に奪われた未解決事件だ。 事件を受け 石原邦夫(7)3億円事件
石原邦夫(8)米国研修 服装・おおらかさに驚く 被害者救済、大きな変化到来 私の履歴書 1月9日 入社する前の半年と入社後の一年間、東京・四谷の日米会話学院で英会話を勉強した。月曜から金曜日まで、午後6時半から3時間。その成果かもしれない。1971年、27歳のとき、米国で保険の最新動向を学ぶ機会を得た。損保各社や代理店の社員が参加する「太平洋保険学校」という研修プログラムだ。 旧満州(現中国東北部)で生まれたが、物心ついてからは飛行機に乗るのも海外に行くのも初めてだった。最初に向かった先は、 石原邦夫(8)米国研修
石原邦夫(9)商品開発の喜び 企業リスク対応の先駆 先輩の言から得た顧客本位 私の履歴書 1月10日 1971年が暮れる頃、米国での3カ月間の研修を終え、帰国した。当時の仕事は賠償責任保険など新しいタイプの保険の開発だ。米国で学んだ知識をもとに講演をし、商品開発に取り組んだ。 商品づくりは、往々にして顧客からの要望がきっかけになる。ある大手商社から、いろんなリスクを一括してカバーする保険を作れないかという相談が来た。自社の製品に欠陥があったときだけでなく、運営する施設が爆発し、第三者が損害を負う 石原邦夫(9)商品開発の喜び
石原邦夫(10)ケガと病気 交差点事故、九死に一生 管理職で気苦労、急性大腸炎に 私の履歴書 1月11日 入社して3年目の4月末の深夜、親戚の家からの帰途。運転していた車が交差点に入った瞬間、右側から強い衝撃を受けた。道路からはじき飛ばされた車が「ドンッ」と激しく振動して浮き上がり、着地した。交差点に右側から進入してきた小型トラックと衝突したのだった。 額から流血していた。フロントガラスの向こうに街灯の白い光をぼんやりと眺めながら、意識が遠のいていった。「いま救急車を呼んでるから頑張れ」と叫ぶ声が聞 石原邦夫(10)ケガと病気