前橋汀子(1)ソリスト 不思議な出会いに導かれ ソ連に留学 まさに幸運 私の履歴書 10月1日 「やっと安心して聴けるようになったわ」。この春、演奏会に来てくれた95歳の母が言った。「安心してってどういうこと」と聞くと「休憩時間にちゃんとトイレに行ったかしらとか、そんな心配ばかりしていたのよ」と言うから2人で大笑いした。 終戦前の春のこと。空襲で近所が燃えていた。「子供は防空壕(ごう)に置いてこいと言っただろう」。周囲から何度も怒鳴られながら、母は1歳半の長女、汀子を背中から下ろそうとしな 前橋汀子(1)ソリスト
前橋汀子(2)両親 高校教師の父 歴史に造詣 「生まれ変わり」信じた母 私の履歴書 10月2日 両親や祖父母、近い親戚に音楽家はいない。クラシック音楽とは縁のない一族だった。父の正二は1913年に生まれ、京都大学文学部史学科で仏教美術を学んだ。戦後は都立北豊島工業高校で社会科の教師を務め、歴史や文化に造詣の深い人だった。 文楽や歌舞伎、芝居が大好きで、熱心に劇場通いをしていたが、音楽にはまるで関心がない。珍しく私のコンサートに来てくれたと思ったら「山田五十鈴の舞台中継が始まるから」と途中で 前橋汀子(2)両親
前橋汀子(3)幼い頃 「みんなで一緒に」が苦手 4歳で始めたバイオリン 私の履歴書 10月3日 私は神経質で手のかかる子供だったらしい。少しでも布団やシーツが曲がっていたりすると泣き叫び、なかなか寝ようとしなかったそうだ。 一方、2歳下の妹の由子はおおらかに育った。わがままな姉の振る舞いを見て、自分はしっかりしなければと悟ったのだろう。実際、由子はピアニストとして私の伴奏者を長く務め、マネジャー的な役割も担ってくれるようになる。 それにしても、我ながら私は非常に変わった子供だったと思う。人 前橋汀子(3)幼い頃
前橋汀子(4)アンナ先生 生涯かけて日本で指導 週2回レッスン、時間に厳しく 私の履歴書 10月4日 自由学園幼児生活団で4歳からバイオリンを始めたが、それは演奏の初歩にすぎなかった。「先生について本格的に習った方がいいのでは」と周りに勧められ、小野アンナ先生を紹介された。 アンナ先生は帝政ロシアの貴族出身で、ロシア革命の最中に動物学者の小野俊一さんと結婚し、混乱を逃れて1918年に来日した。後に私が留学するレニングラード音楽院(サンクトペテルブルク音楽院)でレオポルト・アウアー教授に師事したバ 前橋汀子(4)アンナ先生
前橋汀子(5)大泉の家 学校からレッスンに直行 楽譜に残る母の書き込み 私の履歴書 10月5日 小学3年のとき東京学芸大付属大泉小学校に転校することになった。大泉は同じ区内とはいえ、練馬区桜台の家からは距離があり、都心の飯田橋にあった小野アンナ先生の家はさらに遠くなる。 父は娘の学業とバイオリンの両立を考え、大泉への引っ越しを決断した。西武池袋線大泉学園駅の周辺は今でこそ閑静な住宅街だが、1952年当時は見渡す限りの畑で、新居の周りも家はまばらだった。家までの道案内は「キャベツ畑の角を左に 前橋汀子(5)大泉の家
前橋汀子(6)巨匠の公演 一流の演奏 歴史的な1日 頭なでてくれた「おじさん」 私の履歴書 10月6日 ハンガリー出身のバイオリンの巨匠ヨーゼフ・シゲティが来日し、東京の日比谷公会堂で公演した。小学3年生の私は2階席の通路に新聞紙を敷いて演奏に聴き入った。 1953年3月5日という日付まで覚えているのは、その日にロシアの作曲家プロコフィエフが亡くなったからだ。親友の訃報を受けたシゲティはプロコフィエフのバイオリンコンチェルト第1番の第2楽章を弾いて哀悼の意を表した。その夜の記憶は鮮明に残っている。 前橋汀子(6)巨匠の公演
前橋汀子(7)斎藤秀雄先生 本質伝える大切さ教わる 学校新聞に載った「希望の灯」 私の履歴書 10月7日 中学生になると、小野アンナ先生のレッスンと並行して東京都調布市の仙川にある桐朋学園「子供のための音楽教室」にも通うようになった。音楽評論家の吉田秀和先生や指揮者の斎藤秀雄先生らが設立した音楽教室だ。 アンナ先生の門下生がたくさんいたから、私も自然な成り行きで教室の一員になった。毎週土曜の午後、新宿駅から出ていた送迎バスに乗って仙川に通った。 ここで私は斎藤先生の薫陶を受けることになる。先生から直 前橋汀子(7)斎藤秀雄先生
前橋汀子(8)高校へ 「音楽見渡す」学び 期待 小澤征爾さんの伴奏で試験 私の履歴書 10月8日 「そんな生半可な気持ちでバイオリンを勉強してきたのか」。斎藤秀雄先生が烈火のごとく怒った。桐朋学園「子供のための音楽教室」で師事した斎藤先生にはよく怒鳴られてきたが、こんなに激怒されるとは思っていなかった。 子供のための音楽教室の生徒は中学を卒業すると、ほとんどが桐朋女子高等学校音楽科に進んだ。周囲の誰もが、私もそうするものと思っていた。 ところが私の希望は違った。父が都立の工業高校の教師だった 前橋汀子(8)高校へ
前橋汀子(9)ソ連へ 訴え続けた留学かなう 「人と比べるな」と斎藤先生 私の履歴書 10月10日 「ソ連に行きたい」。東西冷戦下にもかかわらず、思いは募った。折しも私が中学に入った1956年、日ソ共同宣言でソ連との国交が回復する。私はまだ何のあてもないのに、代々木にあった日ソ協会でロシア語を学び始めた。 講座は日曜の午後1時から4時間ぶっ通しで続いた。私のほかは中年のおじさんばかりで、教科書には日常会話ではなく、マルクスやレーニンなどの難しい話が並んでいる。私はいかにも場違いな子供だし、ちん 前橋汀子(9)ソ連へ
前橋汀子(10)寮生活 辞書片手にロシア語 奮闘 「ソ連流」に戸惑い、涙で目赤く 私の履歴書 10月11日 モジャイスキー号は津軽海峡を渡り、日本海の荒波を乗り越えて3日がかりでソ連極東の港町ナホトカに到着した。私と潮田益子さんは窓のない船底の客室でひどい船酔いに苦しみ続けた。 ナホトカ駅でハバロフスク行きの汽車を待っていると、よれよれの服のおばあさんが道端の花を束にして差し出してくれた。遠くから勉強にきた2人へのプレゼントだという。あのおばあさんの目を私は忘れない。この後も私はロシア人の温かい心に何 前橋汀子(10)寮生活