草笛光子(2)横浜生まれ 祖父母に囲まれて育つ 家族以外と話すのが苦手に 私の履歴書 1月3日 「光子、お日さまに当たろう」。祖父が玄関先で小さな私を抱え、朝日に向かって高々と掲げる。あれはいつのことだったか。はるか遠い記憶が今も消えずに頭に残る。 1933年の10月、横浜市の斎藤分町というところにあった母方の祖父母の家で生まれた。母は近くに住む父のもとに嫁いでいたけれど、そのころは第1子は実家で産むのが普通だった。女学校を出てすぐの17歳のときに産んだと母は話していた。でも「ほんとうは1 草笛光子(2)横浜生まれ
草笛光子(3)疎開先で 初めて家族と離れ生活 思い出詰まった1里の道 私の履歴書 1月4日 太平洋戦争が激しくなり、学童疎開で横浜市内の小机にあるお寺に先生や同級生たちと行くことになった。たぶん小学校4、5年生くらいのころだった。家族以外の人とは話すのも苦手な私が、初めて家族と離れて集団生活をしなければならなくなった。 人生で最初の試練はとてもつらかった。天気のいい日は外でシラミをつぶす。夜はお堂に布団を敷いてみんなで一緒に寝る。あるとき、おばあちゃんがお寺を訪ねてくれた。持ってきてく 草笛光子(3)疎開先で
草笛光子(4)高等女学校 電車使わず歩いて通学 演技支える基礎体力培う 私の履歴書 1月5日 父が受験を勧めた神奈川県立横浜第一高等女学校は、いまの県立横浜平沼高校。私にはレベルが高すぎて無理、と思ったけれど、言われるがままに受けたら、なぜか受かってしまった。どうして受かったのか、いまだにわからない。 自宅から電車で1駅の道のりを通学することになったものの、大変な問題があった。たった1駅なのに、その間、電車に乗っているのがつらくて仕方がない。満員電車に押し込まれ、知らない人たちの顔と出会 草笛光子(4)高等女学校
草笛光子(5)SKDへ 学校中退を自ら決意 音楽舞踊学校、負けん気に火 私の履歴書 1月6日 学校で舞踊サークルの活動に夢中になっていたけれど、松竹歌劇団(SKD)のことは全然知らなかった。 草笛光子(5)SKDへ
草笛光子(6)抜擢 ソロで歌う大役に挑戦 森繁久彌さんとラジオ共演 私の履歴書 1月7日 松竹歌劇団(SKD)の舞台に立つようになると、私はソロで歌う場面がある役や大きな見せ場のある役に抜擢(ばってき)されることが多くなった。 草笛光子(6)抜擢
草笛光子(7)ニューヨーク ブロードウェーに行く 「マリウス」の主題歌に衝撃 私の履歴書 1月8日 「草笛」という芸名は松竹の音楽舞踊学校を卒業する直前に先生がつけた。松竹歌劇団(SKD)への入団を前に生徒はそれぞれ名前を考えて学校に提出する。でも私は自分でつけることができなかった。父も一生懸命に考えてくれたけれど。 すると「『草笛』はどうだい?」と、ある先生が言ってくださった。「だれかにつけたいと思っていたんだよ」。それなら、と従うことにした。でも本名の「光子」は変えたくなかった。私は女学校 草笛光子(7)ニューヨーク
草笛光子(8)東宝の舞台へ 菊田一夫先生のもとで NYで俳優の授業も聴講 私の履歴書 1月9日 東宝の菊田一夫先生からお声をかけていただき、先生のミュージカルに出演したいと考えた私は、松竹の城戸四郎社長のもとを訪ねた。 草笛光子(8)東宝の舞台へ
草笛光子(9)「光子の窓」 音楽番組の司会に挑む 永六輔さんらと知恵絞る 私の履歴書 1月10日 私が東宝のミュージカルに出始めたころは、テレビの世界もまさに草創期だった。才能と情熱にあふれた方々が手探りでそれまでにない番組づくりに挑んでいらした。 そんなお一人、日本テレビの井原高忠プロデューサーから「ちょっと局まで来てくれない?」と声をかけられた。1958年のこと。出かけていくと、米国のバラエティー番組「ペリー・コモ・ショー」の映像を見せられた。ペリー・コモは戦後の米国を代表するスター歌手 草笛光子(9)「光子の窓」
草笛光子(10)ジャンヌ・ダルク クラシックの舞台を経験 指揮者の岩城宏之さんと共演 私の履歴書 1月11日 「光子の窓」の放送が始まった次の年、1959年に私はフランスの作曲家アルテュール・オネゲルの劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」に出演した。場所は東京の日比谷公会堂で、私はジャンヌ・ダルクの役。本格的なクラシックの舞台は初めての経験だった。 あるとき、作曲家の芥川也寸志さんと列車の食堂車にいると、顔見知りの劇場関係の方が隣に座った。あれこれ話をしているうち、その方が「ジャンヌ・ダルクをや 草笛光子(10)ジャンヌ・ダルク