江夏豊(1)父現る 「江夏の21球」直前、今さら 長兄がずっと父親代わり 私の履歴書 12月1日 お袋の喜美から、父親はおまえが小さいころに死んだ、と教えられて育った。もうこの世にいないものと思ってきたおやじが現れたのは、広島時代の1979(昭和54)年、日本シリーズで近鉄と戦っていた最中のことだった。 当時おやじと暮らしていた女性から「お父さんが会いたがっている」と連絡があった。 それまで何通か手紙が来ていたが、そういう内容と知ってからは一切読まなかった。お袋の手一つで育って31年。今さら 江夏豊(1)父現る
江夏豊(2)左利き 長兄にたたき込まれる 社会人の草野球で助っ人に 私の履歴書 12月2日 昔は柳生村と呼ばれた奈良県の田舎が出生地だ。柳生一族を題材にしたNHKの大河ドラマ「春の坂道」で有名になり、やっと開けたような村だった。 江夏豊(2)左利き
江夏豊(3)駆け引き 上級生ともめ 野球部退部 陸上部へ、砲丸投げで相手翻弄 私の履歴書 12月3日 中学生左腕としての主戦場は兄房雄の会社のチームの試合だった。普通なら学校の部活が主になるはずなのに、そうならなかったのは、ある事件がもとで退部したからだ。 江夏豊(3)駆け引き
江夏豊(4)強きをくじく 野球部顧問、母と兄説得 新興高校に進学、弱小をバネに 私の履歴書 12月4日 勉強なんて好きでもないし、高校に進学したら、金銭的に家に迷惑がかかる。中学を卒業したら就職するつもりでいた。尼崎市の中学の相撲大会で優勝したこともあり、大相撲に何人も送り込んでいる地元の社会人チームから声をかけられたが、気が向かなかった。 普通のサラリーマンになるはずの人生が、野球部の顧問だった杉山先生の説得で変わった。「豊は高校に行かせたい。勉強ではなく野球をやってほしい」と、お袋やおやじ代わ 江夏豊(4)強きをくじく
江夏豊(5)三振か四球か 真っすぐだけ「独り相撲」 投手の基本動作教わらず 私の履歴書 12月5日 大阪学院は野球部の強化に熱心ではなく、グラウンドも狭かった。左翼が70、80メートル、右翼が60メートルくらいしかとれず、しかも月水金が野球部、火木土がサッカーというように使い分けていた。 塩釜強先生、愛称ガマさんという監督も野球経験のない素人だった。鹿児島の種子島出身で人物は豪快そのもの。「野球は根性や。相手のピッチャーと一対一のサシでけんかするつもりでやれ」という指導で、技術は一度も教えてく 江夏豊(5)三振か四球か
江夏豊(6)最後の夏 ベスト4敗退、甲子園逃す 野球ひと筋、苦しいと思わず 私の履歴書 12月6日 自分たちの世代の思い出話となると、たいがい腹が減っていた、ということになるが、幸いひもじい思いをしたことはない。お袋の喜美は小料理屋を営んでいたこともある。しかし朝が駄目だったのか、弁当は白い飯にノリか梅干しが入っているだけ。その代わり、不自由しないくらいの小遣いをくれた。 高校の売店でうどんや鯨の缶詰を買ったり、おかずの多い友達の弁当から分けてもらったり。おかげでがっしりした体ができた。 兵庫 江夏豊(6)最後の夏
江夏豊(7)進学一転 阪神へ ドラフト1位指名に驚き やり手スカウトに乗せられ入団 私の履歴書 12月7日 高校野球の激戦区である大阪で、新興の大阪学院をベスト4に導いた「左腕江夏」に大学球界からも誘いがきた。一番熱心だったのが東海大。1964(昭和39)年に野球部を創部したばかりで、強化を急いでいたらしく、自宅に松前重義学長が訪ねてきてくれた。 学費なども優遇してくれて、家に迷惑をかけずに済みそうだ。しかも野球部の仲間も何人か入れてくれるという。自分のなかでは九分九厘、東海大へと心を決めていた。 事 江夏豊(7)進学一転 阪神へ
江夏豊(8)現金800万円 契約金、見たことない札束 鉄工所のおやじさんに恩返し 批評 12月8日 人間の運命はちょっとしたところで変わるものだ。数々のドラマを生んできたプロ野球のドラフト。「阪神江夏」の誕生にも、運命のいたずらがからんでいた。 自分を怒らせるという心理作戦で、大学進学から阪神入りへ転向させた佐川直行スカウトだったが、前年、1965(昭和40)年の第1回ドラフトでは独自路線で行って、結果的に失敗している。 甲府商・堀内恒夫(巨人へ)、育英(兵庫)・鈴木啓示(近鉄へ)といった好投 江夏豊(8)現金800万円
江夏豊(9)曲がらぬカーブ 直球一本で三振の山 短い指、変化球に向かず 私の履歴書 12月9日 プロ野球が始まってから80年あまり。これまでに何百人、何千人の投手が入ってきたことだろうが、カーブを投げられずにプロに入ったのは自分くらいのものではないか。 一級上の左腕、鈴木啓示(兵庫・育英―近鉄)のカーブにあこがれ、高校の塩釜強監督に教わろうと思ったら「直球ですらストライクを取れんやつが」といって殴られて、それっきり。高三の夏の大阪大会では6試合で81奪三振。直球だけで三振の山を築いた。しか 江夏豊(9)曲がらぬカーブ
江夏豊(10)打者転向? プロ2打席目で初本塁打 分厚い先発陣、救援での登板続く 私の履歴書 12月10日 1967(昭和42)年2月、プロ1年目のキャンプ。紅白戦では計14イニングで1失点に抑えた。直球と曲がらないカーブだけの投手としては上出来だったが、主力が調子を上げてくるとそうはいかない。 3月、オープン戦が始まると打たれ出した。先発した14日の東映(現日本ハム)戦で六回途中4失点、23日の南海(現ソフトバンク)戦も四回途中8失点。強風で失策が相次ぎ、自責点は3点だったが、開幕1軍は厳しくなった 江夏豊(10)打者転向?