斉藤惇(1)流転の人生 97年の証券不祥事起点 5つの組織や会社渡り歩く 私の履歴書 10月1日 大学を卒業して野村証券に入社したのが1963年だから、もう半世紀以上にわたって証券市場にかかわる仕事を続けてきたことになる。 市場はすべてを映す。高度成長期の高揚、昭和から平成にかけてのバブルの隆盛と崩壊、よもやと思われた大手金融機関の破綻、再生に向けてもがく今の日本。時代の鏡とも言うべき市場を舞台に、ここまでどうにかこうにか、やってくることができた。 どうにかこうにか、というのは決して謙遜で言 斉藤惇(1)流転の人生
斉藤惇(2)証券会社の道 背中を押した母の存在 株に投資、営業マンが自宅に 私の履歴書 10月2日 私は1939年、熊本県の八代市で父親の了(さとる)と母親の礼子との間に生まれた。3男1女の3男で、兄や姉とは1人だけ年が離れていた。小さいころは大人たちに囲まれて育ったという感覚が残っている。 父は熊本ではなく京都府宮津市の出身だ。山口高商を卒業して商社に勤めていたようだが、恩師の薦めで熊本県人吉市にある旧制中学校の英語教師に転じた。その地で母と見合いをして結婚。以後、転勤をくり返した。 母は人 斉藤惇(2)証券会社の道
斉藤惇(3)校長先生の坊や 転校続きの小学生時代 不正に厳しい父 背高く威厳 私の履歴書 10月3日 子どもの頃の思い出の一つは転校だ。教育者だった父親の了(さとる)の転勤に伴い、毎年のように住む場所と通う学校が変わっていった。 熊本県内でも地域によって言葉が違い、学校の授業の進度なども異なっていた。教室でからかわれたり、いじめられたりしてもおかしくなかったが、不思議と苦痛の記憶はない。環境の変化に強い私の性格はこの時分に形成されたのかもしれない。 戦争の末期、父が熊本県の今の住所でいう宇城市松 斉藤惇(3)校長先生の坊や
斉藤惇(4)学生時代 安保デモ「俺は違うな」 福沢諭吉の本契機 会計学ぶ 私の履歴書 10月4日 熊本大学教育学部附属中学校に進んだころから、読書に没頭するようになった。読書の習慣は高校、大学に進んでもずっと続いた。 教育者だった父は若い時から古今東西の文学書や歴史書などを買いため、引っ越しをくり返すなかでも捨てることはなかった。 書籍は幼いころから身近なところにあった。けれども、中学に入りスイッチが入ったように本を読みふけるようになった理由は、よく分からない。あえて分析するなら、自我の目覚 斉藤惇(4)学生時代
斉藤惇(5)野村証券に入社 独りぼっちの長崎赴任 アポ無しで片っ端から営業 私の履歴書 10月5日 大学生だった頃に「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というキャッチフレーズがはやった。投資信託ブームを背景に、銀行預金から証券会社の販売する投信に個人のお金を引っ張ってくる狙いで、日興証券の地方支店が考案したと聞く。 今ふり返れば何ともおおらかで、証券会社が調子に乗りすぎていたきらいもなきにしもあらずだ。私が社会に出た1963年は、そんな雰囲気だった。何社かの内定をいただいた中で野村証券に決め 斉藤惇(5)野村証券に入社
斉藤惇(6)堺で株式担当 現場の不満 人事に訴え 本社から「英語勉強しないか」 私の履歴書 10月6日 長崎支店に4年半ほど在籍した後、大阪府の堺支店に移った。堺は野村証券中興の祖とされる奥村綱雄さんが育ったところ。勇躍乗りこんだのだが、ビジネスの前に環境問題に悩まされた。 土地勘もないまま浜寺諏訪森という場所に家を借りた。すぐにせきがとまらなくなり往生した。近くの工場からは黒煙が上がり、洗濯物に黒いすすのようなものがつくという環境だった。 転勤の直前に結婚した私にはこの頃、長女が誕生していた。子 斉藤惇(6)堺で株式担当
斉藤惇(7)英語研修 3ヵ月間 東京で缶詰めに 「NYへ行かせてください」 私の履歴書 10月7日 英語研修では東京・上北沢の研修寮に11月から3カ月間、缶詰にされた。先生はマルコロンゴさんとシュリヒトさんという2人の米国人。研修生は7人で、30歳を越え最年長だった私は妻と子どもを堺に残して参加した。 ミシガン方式という研修の内容は、ひと言で表すなら条件反射で英語が口をついて出るまで脳と口の筋肉を鍛えるというものだった。 例えば、女の子がブランコで遊ぶ絵を見て、「シー・イズ・スウィンギング、シ 斉藤惇(7)英語研修
斉藤惇(8)米でも研修 日本人と付き合い絶つ 「アンディー」と名乗り始める 私の履歴書 10月8日 前回を読まれた方は、3カ月の猛特訓を経た私が英語を駆使し、最初から米国でバリバリやる様子を想像なさったかもしれない。 現実はそうではない。1972年3月にニューヨークに行った直後は、まともに食事もできなかった。 一緒に赴任した島尾直道君とパンを買いに出かけた時のこと。店員から「ホワイト・オア・ブラック?」と聞かれて、きょとんとしてしまった。「島尾君、これは白人か黒人かと聞いているのか?。俺たち、 斉藤惇(8)米でも研修
斉藤惇(9)ウォール街 日本流の営業 通用せず 証券分析学びに夜間学校へ 私の履歴書 10月9日 ワン・ハンドレッド・ウォールストリート(ウォール街100番地)。私が赴任した時、野村証券が米国の本社を構えていた場所だ。野村創業者、野村徳七の「ウォール街に野村の旗を立てる」という夢を実現する場所だと先輩が教えてくれた。 日本での約10年の支店勤務で、営業の自力には多少の自信もあった。多分に付け焼き刃とはいえ、上北沢とウィニペグの特訓を経て英語力も向上した。「さぁ、やるぞ」と気合は十分。しかし、 斉藤惇(9)ウォール街
斉藤惇(10)ボストンの会社 日本時間の夜中に注文 価格リスク覚悟 交渉し取引 私の履歴書 10月11日 会社が私のような国内営業畑の社員を米国に送り出したのは、米国人に日本株を本格的に売り込むという経営戦略の一環だった。逆に言えば、私がニューヨークに赴任した1972年当時、日本株に投資してくれる機関投資家はまだ多くはなかった。 米国市場では投資家保護の観点が何よりも重視された。米国に上場せず、情報開示も米国水準に達しない企業は、年金運用を託されている機関投資家が危なっかしくて手を出せない、との考え 斉藤惇(10)ボストンの会社