ピーター・ドラッカー(1)基本は文筆家 「マネジメント」を発明 95歳、なお講義続ける 10月2日 2004年11月で95回目の誕生日を迎えた。補聴器は欠かせないし、今では歩くのもやっとだ。 大好きだった山岳ハイキングもやっていない。ご存じないかもしれないが、20年以上かけて日本の主要な山々を訪ねた。富士山へも行ったし、妻と一緒に北海道で2週間過ごしたこともある。当時の北海道は人も少なく、息をのむほど美しかった。それをもう経験できないのは残念だが、体力の衰えは仕方ない。 ただ、仕事はいつも通り ピーター・ドラッカー(1)基本は文筆家
ピーター・ドラッカー(2)帝国首都生まれ 4歳の夏、第1次大戦 父、皇帝に直訴もむなしく 10月5日 私が生まれたのは1909年11月19日、第1次世界大戦が始まる5年前のウィーン。今はアルプスの小国オーストリアの首都で、もっぱら「音楽の都」として知られている。とても国際政治の中心にはなれないが、当時は数百年にわたって欧州に君臨したハプスブルク家が支配し、人口は5000万人に達する大国オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都だった。 14歳か15歳になったころ、父アドルフから「お前が5歳にもなって ピーター・ドラッカー(2)帝国首都生まれ
ピーター・ドラッカー(3)政府高官 父、大戦中に東奔西走 シュンペーター見いだす 10月9日 第1次世界大戦の勃発で、父アドルフはオーストリア・ハンガリー帝国の戦時経済運営を担う主要な政府高官3人のうちの1人となった。 前回触れたように父は外国貿易省長官だった。この役所は18世紀に設けられた帝国最古のもので、そこで父は工業生産を指揮。ほかの2人のうち、1人は財務省高官で金融財政を担当、もう1人は農務省高官で農業を担当し、いずれも父の親友だった。 少し脱線するが、外国貿易省は唯一経済学者を ピーター・ドラッカー(3)政府高官
ピーター・ドラッカー(4)顔広い両親 フロイトと同席、握手 政治家や女優も我が家に 10月12日 私は両親のおかげで幼いころから多様な人たちと接することができた。学校はほんの一時期を除いて退屈極まりなかったから、これが実質的な教育になったと思う。 第1次世界大戦の末期、ドラッカー一家でウィーン市内のレストランで昼食中のことだ。私は父に促されて、同じテーブルに偶然着席した別の一家の主と握手した。 8歳か9歳のころに握手した大人の顔などすぐに忘れてしまうものだ。しかし、この時の記憶ははっきりして ピーター・ドラッカー(4)顔広い両親
ピーター・ドラッカー(5)最高の教師 9歳で学ぶ喜び知る 小学校、1年飛び級で卒業 10月16日 1942年から大学教授をやっている。長い間教壇に立ってきたのは、教えることで自ら多くのことを学べたからだ。生涯学び続けたかったし、そのためにも生涯教え続ける必要があったのだ。 どのように学んできたのか。それを語るうえで欠かせないのは小学校時代だ。そこでの体験がなかったら、大学で教鞭をとることもなかったかもしれない。少し当時の話をしてみよう。 本を読み始めたのは4歳から。以来、本の虫である。当時は ピーター・ドラッカー(5)最高の教師
ピーター・ドラッカー(6)ギムナジウム ラテン語にうんざり 赤旗デモ、誘われて先頭に 10月19日 飛び級で入学したギムナジウムは、ラテン語を中心に古典教義を教える進学予備校だ。別名ラテン語学校で、そこに8年間通うことになる。 学校までの道のりは遠かった。始業時間の朝8時に間に合うように、毎朝6時半にメードがノックする音で目覚め、7時過ぎに家を出る。学校の規則で、吹雪の日以外は路面電車の利用は認められず、40分は歩き続けなければならない。通学だけでも大変だと思われるかもしれないが、当時としては ピーター・ドラッカー(6)ギムナジウム
ピーター・ドラッカー(7)独ハンブルクに 退屈なウィーン脱出 本物の「大学教育」図書館で 10月23日 ウィーンのギムナジウムでは退屈な授業に心底うんざりしていた。そんな状況から抜け出す手っ取り早い方法は、ドイツか英国で見習いの仕事を始めることだ。 教師たちとも、私がもう十分に学校のイスに座ったという点で意見が一致していた。しかも、弟が医学の道に進むことを決め、当分は父に扶養してもらわなければならないこともわかっていた。父の負担を軽減するためにも経済的に自立したいと思った。 けれども父は大学への進 ピーター・ドラッカー(7)独ハンブルクに
ピーター・ドラッカー(8)大恐慌 銀行倒産で記者の道 厳格な編集長、偉大な教師 10月26日 ハンブルクの貿易会社での見習いを終え、1929年1月にまともな仕事を得た。米系投資銀行フランクフルト支店の証券アナリストだ。 アナリスト業のかたわら、今から思えばお恥ずかしい限りの「学問的」な計量経済学の論文を2本書いた。そのうちの一つは急騰を続けていたニューヨーク株式相場についてで、「さらに上昇する以外にありえない」と断じた。 論文は2本とも権威ある経済季刊誌の1929年9月号に掲載された。そ ピーター・ドラッカー(8)大恐慌
ピーター・ドラッカー(9)記者兼教授 ヒトラーに直接取材 国際法ゼミで代役務める 10月29日 新聞社フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーでは、入社2年後の1931年、3人いる副編集長のうちの1人へ昇格した。22歳になったばかりだった。 こんな若者がなぜ、と不思議に思われるかもしれない。当時、上の世代は第1次世界大戦の影響で人材不足だったのだ。編集局は、たったの14人の記者と編集者で成り立つほどの少数精鋭だった。 ニュースはロイターなど通信社電に頼っていたが、特集記事や論説は自前で用 ピーター・ドラッカー(9)記者兼教授
ピーター・ドラッカー(10)ドイツに別れ ナチス支配を許せず 「ユダヤ人は即解雇」に激怒 11月1日 1933年1月にナチスが政権を握った後もフランクフルトにとどまっていた。フリードリッヒ・シュタールについて書いた本がこの世にまだ出ていなかったからだ。 シュタールは「ドイツ保守主義の父」と言われる19世紀の哲学者だが、人種的にはユダヤ人だ。彼について書くということはナチスへの攻撃を意味した。どうせドイツを脱出するのなら、ジャーナリストでもあるし、自分の立場を明確にしてひとかどの人間になりたかった ピーター・ドラッカー(10)ドイツに別れ