樋口広太郎(1)ネアカ人生 「私はたいへん運がいい」 1月26日 夢あればこそ 酒は少量、人生に酔う 人々との語り合いを糧に 私はビール屋ですが、実はお酒があまり飲めません。若いころはどこに入るのかと思うほど飲んだものですが、いつの間にか弱くなりました。銀行時代に肝臓を悪くしたこともあって、今ではほんの少したしなむ程度です。 でも、懇談の席で議論するのは大好きです。酒を飲まないのに、酔っ払っているのではないかと周囲からしばしば冷やかされるほどのおしゃべり好きで、 樋口広太郎(1)ネアカ人生
樋口広太郎(2)アサヒ初出勤の日 土地売却に「ノー」宣言 1月30日 アサヒ初出勤 土地売却、ひっくり返す 社長就任、経営再建に闘志 私がアサヒビールに初出勤したのは1986年(昭和61年)1月7日です。次期社長に内定していましたが、正式に就任するまでの3カ月は顧問ということになっていました。その前の年に、アサヒビールのシェアは過去最低の9.6%まで落ち込んでいて、聞きしにまさる窮状でした。 その日、初めての会議では端の方に座っていました。議題は、大部分をすでに売却 樋口広太郎(2)アサヒ初出勤の日
樋口広太郎(3)実力会長・磯田氏と対立 住銀を飛び出す 2月2日 住銀を飛び出す 磯田氏への直言裏目 安定企業をけりアサヒに 住友銀行の副頭取からアサヒビールへの転出が決まった時、父は病床についていおり、すでに病状はかなり悪くなっていました。 「今度、アサヒビールに行くことになったよ」と話したら、「住友銀行に長年お世話になった分を、アサヒビールでお返ししなければいけないぞ」と、昔かたぎの律儀な性格をそのままに、私を励ましてくれました。 父が亡くなったのは、それか 樋口広太郎(3)実力会長・磯田氏と対立
樋口広太郎(4)前任社長村井氏に「全部任せて」 逆境に勝算あり 2月6日 引き継ぎ 村井氏に「全部任せて」 「逆境こそチャンス」と頼む 1986年の年明け、顧問としてアサヒビールに初出勤した私は、社長の村井勉さんに、いきなり厚かましいお願いをしました。 「今日から仕事を全部任せてもらえませんか」と。村井さんはあっさりしたもので、「ああいいよ。好きなようにやってくれ」でした。つくづく大物だなと思いました。 全責任を負うからには、会議などで気がついたことをどんどん指摘しまし 樋口広太郎(4)前任社長村井氏に「全部任せて」
樋口広太郎(5)アサヒ立て直し 「成功確率は2割」が本音 2月9日 問屋行脚 出向者をたしなめる 一兵卒の心と行動を示す 住友銀行を去るにあたって、役員や支店長を前にお別れのあいさつをしたとき、アサヒビールの窮状をありのまま話したうえで、「香典をもらいたい」と切り出しました。 「私が死んだと思って、一緒に働いて楽しかった人は3万円。この野郎と思った人は厄介払いだと思って1万5000円。なんとも思わない人は1万円。それぞれ、そのお金で売れ残っているアサヒビールを買っ 樋口広太郎(5)アサヒ立て直し
樋口広太郎(6)幹部人事に口出す労組 強硬姿勢で改革 2月13日 組合との戦い 筋違いの要求は拒否 強硬な姿勢貫き意識改革 私の社長内定を発表する前日のことでした。社長の村井さんから「あいさつしてもらいたい人がいる」と言われて、紹介されたのが労働組合の委員長でした。待ち合わせたホテルの部屋に入った時に私が委員長に対して抱いた印象は、ずいぶん尊大に構えているなというものでした。紹介役の村井さんが脇に腰掛けていたのとは対照的に、委員長はソファーにどっかり座って構えて 樋口広太郎(6)幹部人事に口出す労組
樋口広太郎(7)「ビールが古い」ライバルが助言 対策打ち悪循環絶つ 2月16日 商売敵の助言 「ビールが古い」即対策 仕入れ調べ購買に競争原理 私は銀行の事業調査部でビール業界を担当したことがありましたが、随分昔のことですし、ビールメーカーの経営については、しょせんずぶの素人です。入ってすぐに何が問題かなど、わかるわけがありません。社内で聞いてもあけすけに言う人はまずいませんから、限界があります。 さて、どうしたものか。そうだ、ご同業に聞くのが一番早いと思い立ち、さっそく、ご 樋口広太郎(7)「ビールが古い」ライバルが助言
樋口広太郎(8)味を変えてもイケる! スーパードライ成功は「運」 2月20日 スーパードライ 商品に顧客の声反映 5000人調査、すっきり味に さて、そろそろ「スーパードライ」のお話をしなければなりませんが、これが爆発的にヒットした理由は、理屈だけではとても説明できません。たまたま成功しただけだと私は思っているんです。簡単に言えば「運」でしょうな。 私がアサヒビールに顧問として入った86年1月には、コクがあってキレがいい生ビール、いわゆる「コク・キレ」ビールの計画が進んでい 樋口広太郎(8)味を変えてもイケる!
樋口広太郎(9)アサヒ、「一番しぼり」取り逃す 積極経営には賛否も 2月23日 失敗と躍進 「一番しぼり」取り逃す 財テクでは一部損失も 1987年3月に発売した「スーパードライ」の販売目標は当初、年間100万箱(1箱大ビン20本)でした。ところが実際には、発売後2カ月でいきなり140万箱も売れ、その年の販売がなんと1350万箱を超えました。驚くべきことに、翌年もさらに7割増を記録して、シェアは13%から21%に跳ね上がりました。その結果、業界3位からキリンビールに次ぐ2位に 樋口広太郎(9)アサヒ、「一番しぼり」取り逃す
樋口広太郎(10)変なあだ名が 浅草のランドマーク誕生秘話 2月27日 先人の碑 解雇社員を呼び戻す 物故者まつり労苦に感謝 「コク・キレ」ビールに続いて「スーパードライ」が爆発的にヒットして、会社は見違えるようによくなりました。マスコミからは「奇跡の復活」などと持てはやされ、アサヒビールの企業イメージはがらりと変わりました。しかし私には、ずっと気になっていたことがありました。 それは、私が入る5年前の1981年に、当時3000人いた社員のうち500人に肩たたきをして 樋口広太郎(10)変なあだ名が