土光敏夫(1)「関心は現在」 「行革」への思い 5月15日 ■日新、日日新――やはり「現在」に関心 "行革"で楽しい余生はお預け 私の最も好きな言葉は、中国の古典『大学』伝二章にある「苟日新、日日新、又日新(まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり)」というものである。 これは、中国・商(殷)時代の湯王が言い出した言葉で、「今日なら今日という日は、天地開闢(かいびゃく)以来はじめて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。そ 土光敏夫(1)「関心は現在」
土光敏夫(2)「総理の決意あるのみ」 行革断行、首相に迫る 5月18日 ■行政改革(上)――数年前から必要性痛感 再三の懇請で臨調会長に 行財政改革問題について、その必要性を痛感し始めたのは、昭和50年(1975年)ごろからであった。 その年の「文藝春秋」2月号誌上で、"グループ一九四八年"の共同執筆による論文「日本の自殺」が発表された。その中身は、一見豊かさを謳歌している日本社会が、実は崩壊つまり自殺への道をひそかに歩んでいるのではないか、ということを指摘したものだ 土光敏夫(2)「総理の決意あるのみ」
土光敏夫(3)「行革は国民運動」 官頼りからの脱却覚悟 5月22日 ■行政改革(下)――むしろ「これから本番」 国民全体の意識改革が必要 昭和56年(1981年)の秋、第二臨調・第一特別部会会長代理の牛尾治朗氏(ウシオ電機会長)の司会で、立正佼成会の庭野日敬会長と「行革つぶしの亡者は斬る」というタイトルで、雑誌「現代」で対談を行った。その対談は、行革のあるべき姿や臨調各委員の苦労などが非常によく語られていたので、それを中心に、私見を加え、座談風に構成してみた。 A 土光敏夫(3)「行革は国民運動」
土光敏夫(4)海賊の子孫? ルーツの真相は 5月25日 ■生家――先祖は戦国時代の領主? 「土光―海賊説」この際訂正 私は、明治29年(1896年)9月15日、岡山県御津郡大野村大字北長瀬字辻(現在は岡山市大野辻792)で生まれた。父は菊次郎、母は登美といい、中の下くらいの農家であった。両親は、3男3女をもうけたが、長男英太は1歳で病死、2番目の私が実際上の長男となった。 いま私の家では、年2回、必ず一家中の者が集まるきまりになっている。一つは正月、も 土光敏夫(4)海賊の子孫?
土光敏夫(5)遊びは汚していい着物で 物を大事に、土光家のしつけ 5月29日 ■受験失敗――勉強より腕白に励む 関西中学で向学心目覚める 明治36年(1903年)、大野村立大野尋常小学校に入学した。学校は、家から2キロほど離れた小山の麓にあった。当時、1学級3、40人程度の生徒数であったと思うが、その後、人数が増加して、現在は広い田地の中に移転している。 私の小学校時代は、昔の農村地帯のことであるから、生活はのんびりしており、田や畑を遊び場としてわがもの顔に走り回った。凧上 土光敏夫(5)遊びは汚していい着物で
土光敏夫(6)関西中時代 教えは「国士魂」とデモクラシー 6月1日 ■山内校長――繰り返し"国士魂"説く 心身鍛錬に100キロの徒歩行進 関西中学時代、私は偉大な人格に出会った。それは、山内佐太郎先生という関西中学第10代の校長である。 山内校長は、兵庫県揖西村の出身、28歳のとき東京高等師範を卒業された。31歳、京都府立第四中学校長、36歳、千葉県佐倉中学校長を経て、40歳、知事の推薦で関西中学に来任された。大正2年(1913年)9月、私が3年のときであった。 土光敏夫(6)関西中時代
土光敏夫(7)母 乳をふくませて「日本及日本人」を愛読 6月5日 ■信仰厚い両親――父、絶対性を置く生活 理性的で新思想も学んだ母 岡山一帯は、"備前法華"といって、昔から日蓮宗の信仰厚いところである。私の父母も、そうした土地の影響にもれず、ともに日蓮宗の熱心な信者であった。私ども子供も、物心ついてから、父母と一緒に、必ず法華経を唱えさせられたものである。 しかし、父と母との信仰ぶりは、たいへん対照的であった。 父、菊次郎は、どちらかというと盲目に近い、絶対的信 土光敏夫(7)母
土光敏夫(8)齢七十、女学校創設に乗り出した母 6月8日 ■橘学苑(上)――父の死後、母が設立 独力で資金や土地を手当て 母が女学校の経営を思い始めたのは、昭和14、5年ごろからだったと思う。そのころは、昭和12年(1937年)に勃発した日華事変がますます拡大、世は全く戦時色一色に塗り込められていた。 そうした世相に母は危機感を覚えていたのであろう。「国の滅びるは悪によらずしてその愚による」というようなことを言い出していた。したがって、国を救うには、愚に 土光敏夫(8)齢七十、女学校創設に乗り出した母
土光敏夫(9)死の間際まで学苑に献身 母の思い継ぐ 6月12日 ■橘学苑(下)――二代目校長は母自ら 実践を重視、無理たたり他界 橘女学校の創立のことばは、一、心すなおに真実を求めよう。二、生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう。三、正しく強く生きよう、というものである。 初代校長は、加藤文輝師。日蓮上人の御遺文録を編さんされた加藤文雄師の令息で、母は信仰の関係で先生と知り合い、ぜひにと懇望したらしい。 最初の生徒は28人。30人受験 土光敏夫(9)死の間際まで学苑に献身
土光敏夫(10)東京高工で技師目指す 母を心配させたデモ写真 6月15日 ■蔵前時代(上)――生活きりつめ技師の道 級長、意に沿わないデモにも 私は、大正6年(1917年)、東京高等工業学校機械科に入学した。私がエンジニアへの道を選んだのは、多分に伯父の影響があったからだと思う。父のすぐ上の兄、常次郎は、機械関係の技師として、日本の方方に足跡を残しているが、その中で最も著名なものは、琵琶湖のインクラインである。 インクラインとは、動力によって台車を曳(ひ)かせ、貨物や船 土光敏夫(10)東京高工で技師目指す