松下幸之助(1)父が米相場で失敗 10月9日 私の少年時代はむしろ小僧時代という呼び方が当たっているかもしれない。家運の傾いた家に育った私には幼いときの楽しい思い出は少なく、苦労の思い出だけが多い。まあ順を追って話していこう。 私は和歌山市から和歌山線に沿って東へ2里、海草郡和佐村(現・和歌山市禰宜【ねぎ】)というところで明治27年11月に生まれた。 家は格別由緒正しいというほどでもないが、まあ村では旧家に属する方で、暮らし向きも長兄が県下 松下幸之助(1)父が米相場で失敗
松下幸之助(2)小僧時代 10月13日 火鉢屋の小僧をしている私の給料――といっても小遣いだが――は毎月1日、15日の2回に5銭ずつだった。しかし私が家にいたときは、5銭というまとまった金をもらったことがなかっただけに、非常に大金のように思え、うれしかった。 この小僧時代にただ一つハッキリ覚えていることがある。いまはほとんど見受けられないが当時バイといって鉄製の小ゴマを盆の中で回して競争する遊びがはやっていた。私も親方の赤ん坊を背負っ 松下幸之助(2)小僧時代
松下幸之助(3)電灯会社時代 10月17日 自転車屋の奉公は6年間、17歳のときまで続いた。このころ私は自分の進む道を一生懸命に考えた。これはいま考えるといささか噴飯物【ふんぱんもの】だが、当時大阪市は全市に電車を動かそうと計画しており、一部の線は開通していた。そこで電車ができたらいまに自転車の需要は減るだろう。この反対に電気事業は将来非常に有望だ。ひとつ転業しようと私は決心した。 義兄の亀山に打ち明け、電灯会社に入れてもらうように交渉を 松下幸之助(3)電灯会社時代
松下幸之助(4)創業時代 10月20日 24歳の春、私は電灯会社の検査員に昇格した。私の昇格は異例なほど早く、この検査員は工事人仲間にとって一つの出世目標だった。この仕事は担当者のやった仕事を翌日検査して悪ければ仕直すように命ずるだけだ。日に15軒から20軒回るのだが、非常に楽な仕事で、2、3時間もあればすんでしまう。 ところがこの楽な役に回ってみると不思議にいままでのように仕事に熱が入らず、なんとも物足らない気分を持てあますようにな 松下幸之助(4)創業時代
松下幸之助(5)松下電器の運命をかける 10月24日 新しく移った大開町の家で、まず手がけたのは「アタチン」(アタッチメント・プラグ)であった。私の工夫したのは古電球の口金を応用したもので値段は市価の3割安、しかもモダンな型ときたからこれが当たった。ついに夜なべをしても注文に応じ切れないので、初めて4、5人の人をやとうことにした。 次に考案発売したのが2灯用差込みプラグで、これは「アタチン」にも増して大好評だった。しばらくすると吉田という大阪の問屋 松下幸之助(5)松下電器の運命をかける
松下幸之助(6)昭和2年の恐慌 10月27日 話は昭和の時代に入る。当時は電熱部門を設けたり、アイロンを造りはじめたり、先の砲弾型の代わりに今日の角型ランプを売り出したことなどがあったが、それよりも思い出深いのは不況の時のことだ。私にはこれがいろいろの面でかえってプラスになった。 昭和2年の銀行パニックでは松下電器もご多分にもれず被害を受けたが、これが住友銀行と結ばれた機縁になったのは妙なことである。当時の取引銀行は十五銀行が中心で、受取手 松下幸之助(6)昭和2年の恐慌
松下幸之助(7)発展時代 10月31日 ラジオ界への進出と同時に、乾電池を直営にした。昭和5年、ランプの需要はますますふえ、ランプは月20万個、電池は月100万個が売れていたので、下請の岡田乾電池だけでは間に合わず、大阪にもう一軒ほしいと思い、当時競争相手であった小森乾電池に提携を申し込んだところ、意外にもたやすく承知された。その後、売れ行きのふえるごとにランプを値下げしていったが、この小森乾電池はこれに追い付けず、同社の申し出によっ 松下幸之助(7)発展時代
松下幸之助(8)労組の擁護運動で追放取りやめ 11月7日 統制時代からやがて戦時へ。次第に資材や機械がなくなってきた中で、軍の生産だけはなんとか続けていた。このうち忘れられないのは木造船と木製飛行機のことである。当時政府に200トンの木造船生産計画があり、大阪府にもこれを割当ててきた。結局これを松下でやることになり、堺市にある3万坪の土地を払下げてもらい、松下造船という会社を造った。 電器屋が船を造るというのだからまことに妙ちきりんなものだが、それでも 松下幸之助(8)労組の擁護運動で追放取りやめ
松下幸之助(9)会社再建めざし米国視察 11月10日 私はかつて昭和31年に、この欄(「私の履歴書」)で、少年時代から戦後の会社再建にスタートするまでをお話ししたことがある。しかし、それからもう20年の歳月が過ぎた。その後の私の経済人としての歩み、考え方を話してほしいということなので、今回は、戦後の占領下経済を経てしだいに日本が独自の歩みを始めた昭和25年から稿を起こし、今日に至るまでの道程を、折々における感懐などを織り込みながら述べることにしたい 松下幸之助(9)会社再建めざし米国視察
松下幸之助(10)フィリップス社と提携(上) 11月14日 オランダのフィリップス社との提携のことを書いてみよう。フィリップス社とは、昭和26年10月末から11月に、ヨーロッパへ出かけて1回目の接触をして以来、諸条件がまとまって正式に提携調印するまでに1年近くかかった。 もともとフィリップス社との取引は、すでに昭和12年ごろにあったが、戦争で中断されたままになっていた。どこの国の、どのメーカーと、エレクトロニクスの分野で技術提携をしようかと、昭和26年に 松下幸之助(10)フィリップス社と提携(上)