竹鶴政孝(1)運命のとびら ウイスキー造り一筋 多くの人々に助けられて 11月20日 私は広島県竹原町(現在竹原市)の造り酒屋の三男として生まれた。ことしで73歳になる。家業を継ぐため大阪高等工業(現在の大阪大学)の醸造科に入り、ウイスキーに興味をもってから、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた。その意味では1行の履歴でかたづく男であり、これまで「私の履歴書」への登場を辞退してきたのも、それ以外に取り柄がなく、私などの出る幕ではないと思っていたからである。しかし、何度も人に 竹鶴政孝(1)運命のとびら
竹鶴政孝(2)生家 酒づくりのきびしさ 父通じ子供心に焼き付く 11月27日 竹原は尾道と呉の中間にあって、三方が山で囲まれ、南は内海に面しており、その海に大小さまざまな島が横たわっている天然の景勝地である。また大和奈良時代の弥生式文化の跡や古墳があり、江戸時代には、頼(らい)家や唐崎家を中心に文教の盛んな所として天下にその名が知られていた。 この街は当時の文人たちから"安芸の京都"と呼ばれただけあって、古い家並みが続き、しっとりとした感じが私の子供時代まではまだ残ってい 竹鶴政孝(2)生家
竹鶴政孝(3)小学校と中学 "良い鼻"はケガのお陰 寮で池田元首相をしごく 12月1日 小学校は、私の家の向かい岸にあった竹原小学校に通学した。橋が5、6丁(500~600メートル)も上流にあったのと、兄弟姉妹が多かったので、自分の家から舟を出してもらって渡った。帰りは向こう岸の堤の桜の木の下に待ち合わせ、全員そろったとき、川をへだてたわが家に大声で叫ぶのである。 「オーイ帰るよう」 その声を合図に、迎えの舟が出る。のどかなものであった。 その舟の船頭役は関取であった。昔は草相撲が 竹鶴政孝(3)小学校と中学
竹鶴政孝(4)大阪高工醸造科 洋酒に興味持ち勉強 摂津酒造に"押しかけ就職" 12月4日 この時代の青年の夢は大きかった。だから上の兄は、早稲田の商科を出て従兄弟と2人でシンガポールに行き、ゴムの栽培を試みていた。次の兄もまた酒屋をきらった。忠海中から六高に進み、九大工学部を出て、北海道炭礦汽船に入社し、北海道へ渡ってしまった。 結局、家業を継ぐのは、私しかいなくなった。学校でも理科系統の学科は得意だったから、両親はますます私に期待した。私は酒屋という古めかしい商売には抵抗を感じなが 竹鶴政孝(4)大阪高工醸造科
竹鶴政孝(5)楽しい仕事 入社まもなく主任に 研究に熱中、工場で仮寝 12月8日 学校を出て初めての仕事は楽しかった。イミテーションとはいえ洋酒づくりに無我夢中になった。職工さんと同じ作業服を着て動き回り、ロンドンのブッシュ・カンパニーから出ていた"レシピ"(Recipe)を参考にしながら、今までと少し違う調合を試したりした研究を続けた。夜、おそくなると家に帰らないで、アルコールをつくる蒸留塔のそばが暖かいので、その上でよく寝たものだった。 入社まもないころだったせいもあって 竹鶴政孝(5)楽しい仕事
竹鶴政孝(6)英国へ出発 ウイスキーの勉強に 反対の両親、社長がくどく 12月11日 12月の徴兵検査の日は、すぐやってきた。検査は大阪で受けた。今でもからだはがんじょうだが、若いときはそれこそ筋骨隆々で、からだにだけは自信があった。検査官は中尉で、諸検査が終わって私が検査官の前に直立すると、"甲種"の印をもち上げかけて、ちょっと止め、左手で書類をひっくり返した。そして私が摂津酒造の技師でアルコール製造に従事していることに気づいたらしく、「アルコールは火薬をつくるのに、ぜひ必要だ 竹鶴政孝(6)英国へ出発
竹鶴政孝(7)米国に立ち寄る ぶどう酒工場を見学 仏・伊と違う大規模な設備 12月15日 英国へはアメリカ経由で行ったので、まず上陸したのはサンフランシスコである。私は初めて見る外国の町のメーンストリートの建物や、商店の豪華なのにびっくりした。その商店で、日本からもっていったドル札で買い物をすると、ピカピカの金貨が、おつりでどうとくる。次の買い物も、めんどうなのでドル札を出す。金貨のおつりがくるので、たちまちポケットがいっぱいになり、その金貨の重さで歩くのに困ったほどであった。1ドル 竹鶴政孝(7)米国に立ち寄る
竹鶴政孝(8)英国の土を踏む グラスゴー大に入学 豊富なウイスキーの文献 12月18日 私の乗ったオルドナ号の乗客といえば兵隊が大半で、そのほかに民間人が若干おり、女や子供までいた。そしてドイツの潜水艦にやられたときの避難訓練を続けながら、大西洋の航行を続けた。ところが、あすは英国のリバプール港に着くという前の日の深夜のことであった。ほとんどの人は寝ていたと思うが、私は母に手紙を書いていた。そのとき、ドーンという大音響と同時に私は部屋の端から端まで投げ飛ばされた。柔道の受け身で立ち 竹鶴政孝(8)英国の土を踏む
竹鶴政孝(9)スコットランド モルトの本場で実習 学んだ成果、毎日ノートに 12月22日 ウィリアム教授は、私をスペイン人と間違えられたが、それは私がワシ鼻のせいだったからだろうか、その後もよくスペイン人かときかれた。当時の英国は日露戦争の勝利、日米同盟などで対日感情はすごくよかったが、日本人の顔を見るのは初めてという人たちばかりであった。特にウィリアム教授には、いろんな面倒や、親身のお世話をいただいた。今でも大切に使っているネットルトンのウイスキーの本は、このころウィリアム博士の推 竹鶴政孝(9)スコットランド
竹鶴政孝(10)蒸留所通い 原酒作りのコツ学ぶ 人がきらう仕事も必死に 12月25日 スコットランドのローゼス地方の人たちは、親から子へ、子から孫へと受け継いできたウイスキーづくりの伝統を黙々と守りながら、教会を中心として静かな生活をしていた。素朴で親切な人たちばかりであった。 北の国だけに冬は日が非常に短いかわりに、夏は夜半まで明るい。夜はホテルにあるバーに集まったり、外でグリーンボーリングに興じたりするのがこの地方の人たちのせいぜいの娯楽であった。 私は毎日この町から汽車に乗 竹鶴政孝(10)蒸留所通い