井深大(1)祖父のこと 会津朱雀隊生き残り 早逝した父に代わる存在 4月9日 栃木県上都賀郡日光町字清滝の古河鉱業日光製銅所の社宅で、井深甫(たすく)、同さわの長男として、明治41年4月11日に生まれたのが私である。父は新渡戸稲造先生の門下生で、札幌中学から蔵前高工(東京高等工業で東京工大の前身)の電気化学科に進んだ科学技術の素養がある人であった。学生時代に静岡県御殿場線の小山に洋書と首っぴきで設計した小さな水力発電所をつくった。これは日本としても最も古い発電所の一つであ 井深大(1)祖父のこと
井深大(2)小学生のころ 機械いじりが大好き 母の再婚で祖父母のもとに 4月12日 幼稚園から小学校1年2学期までを過ごした東京の生活は、どういうわけか強く印象に残っている。かなり昔のことになったが、目白の付近をあちこち遊んで歩いた印象がはっきりと頭に残っている。当時の同級生には自由学園の羽仁恵子園長や小布施証券社長の小布施新太郎君らがいたが、小布施君の家は大きな邸宅で、広い庭があり、よく遊びに行った。 1年3学期のとき母方の祖父が病気になったので苫小牧の小学校に転校したが、工 井深大(2)小学生のころ
井深大(3)中学時代 「無線」にこり勉強せず こづかいためて真空管買う 4月16日 小学校5年の3学期に、いつまでもいなかにいてはいかんというので、母の再婚先である神戸に行き、諏訪山小学校にはいった。この学校は神戸一中をめざす予備校のようなもので、スパルタ式教育で徹底的な入学準備をやらされた。スパルタ教育を経て、私とともに神戸一中に入学した連中のうちには服部正吾(田辺製薬工場長)、塩路義韶(敷島紡績常務)、磯野正俊(北見パルプ専務)の諸君らがおり、世に出た人が多い。 小学校では 井深大(3)中学時代
井深大(4)早大時代 陸上対抗に拡声装置 クリスチャンの努力も 4月19日 神戸一中の4年生の成績はアマ無線にあまりに凝りすぎたため、とことんまで落ちた。こんな調子だから、かなりの人たちが4年生から高等学校にパスして学窓を去っていったのに、私にはとてもその望みはなかった。これではいかんと思ったので、5年生のときはピッタリと無線をやめてしまった。成績も上がったので、浦和高校と北大予科を受けたが色弱のため官立の高等学校は受からなかった。 そして早稲田大学の第一高等学院に入学 井深大(4)早大時代
井深大(5)社会人第一歩 請われてPCL入社 約束と違う初月給に文句 4月23日 私の社会人としての出発はPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所)に入社したときから始まる。PCLに入社するようになったのはケルセルに関する特許を出したとき、清水という親切な審査官がいてPCLで君のような人をほしがっているからといって、当時所長をやっていた植村泰二氏(経団連副会長植村甲午郎氏の弟)のところへ引っ張っていってくれたからである。 PCLは日活など各映画会社のトーキーの下 井深大(5)社会人第一歩
井深大(6)結婚 新しい仕事へ出発 日本光音の無線部で研究 4月26日 昭和8、9年といえば日本でもオーナー・ドライバーがぼつぼつ出現したころである。所長の植村泰二氏、PCL交響楽団の紙恭輔、藤山一郎の両氏らもオーナー・ドライバーのハシリの方で、出社はもちろん、レジャーをドライブで楽しんでいるのを見てうらやましく思ったこともある。私は当時は映画フィルムの切り端を使える写真機がほしくてたまらなかったので、ライカを280円で買ったのがたたって自動車を買う余力がなかった。 井深大(6)結婚
井深大(7)戦時中 盛田君との出会い 新兵器の研究会が縁で 5月7日 日本光音でいろいろなことをやったが、だんだん軍関係の仕事が多くなってきた。日本光音は元来16ミリのトーキーをつくるのが目的の会社だったので、いろいろ新しいことを片っぱしからやりたい私には日ましに窮屈になってきた。 友愛学舎時代から話のよく合った小林恵吾君と仕事上のことでちょいちょい会っているうちに、ひとつ2人で好きなことをやろうやということになってしまった。小林君は当時横河電機で航空計器をやって 井深大(7)戦時中
井深大(8)終戦 仲間とともに東京へ 「東通研」で再スタート 5月10日 サイパン、テニアンも占領され、不沈空母による本土空襲は定期便化していた。トラックが毎日のように京浜地帯から列をつくって山梨や長野に工場疎開の荷を積んで引っ越しを始めたのはそのころである。日本測定器工場もこの列にまじって長野県須坂の製糸工場に疎開した。 工場の拡充や疎開などに要した資金は満洲重工業の三保幹太郎氏から出資してもらった。須坂工場は約7万平方メートル(2万坪)のりんご園を持つ製糸工場を改 井深大(8)終戦
井深大(9)東通工設立 万代会長、前田社長で 真空管電圧計で大量注文 5月14日 技術者の集まりである東京通信研究所は大海に乗り出した小舟のようなものであった。私たちは技術だけをたよりに新製品の開発に全力を注いだ。コンバーターについで手がけたのが電気炊飯器である。当時戦争が終わって軍需工場が一挙に閉鎖したので一時電力があまるという奇現象が現われた。この余剰電力を使ってめしをたくことを考えたわけだ。いま流行の電気がまの元祖みたいなようなものである。 この商品を大々的に売り出そう 井深大(9)東通工設立
井深大(10)新円かせぎ 当たった電熱マット 法隆寺出火でびっくり 5月17日 東通工が発足して1ヵ月とたたないうちに白木屋の工場では手狭になった。そこで21年6月に長野県上高井郡小布施村に200平方メートル(60坪)ばかりの疎開工場を見つけて長野工場を開設、白木屋の本社工場を東京工場として従業員もふやした。地震研究所の研究員だった岩間和夫君も盛田君の親友というよしみで参加してきた。岩間君は入社と同時に音片発振器の研究にとりかかった。この第1号商品は8月に簡易信号発生器とし 井深大(10)新円かせぎ