平賀敏氏 友情の誼、藤本の名残す コラム 6月12日 明治42(1909)年、藤本ビルブローカー銀行は大日本製糖(日糖)関係の債権者に、支払いの猶予を願わざるを得ない状態となった。この時、平賀敏は熟慮の末、年来の友藤本清兵衛との誼もあって一肌脱ぐことになる。三井銀行時代、多くの修羅場をくぐってきた平賀であってみれば、ここでしり込みするわけにはいかない。ましてや藤本とは、ビルブローカー業の将来性を熱っぽく語り合った仲ではないのか。 「その以前から藤本 平賀敏氏 友情の誼、藤本の名残す
立川勇次郎氏 石炭で失敗、電鉄の開祖 コラム 5月29日 弁護士から実業界に転じた立川勇次郎は、友人と共同出資でリスクの大きい鉱山業に手を染める。明治22(1889)年、27歳のことだ。その鉱山は筑豊炭田の一角に位置する楠橋炭鉱と言い、初めは順調な滑り出しで、立川は現地に詰めっきりで、事業の進展を喜んだ。ところが、同25年になって状況は一変する。立川は往時を回顧する。 「25年という年は炭価が激変をきたした時である。門司、上海、香港どこでも売れ口のない 立川勇次郎氏 石炭で失敗、電鉄の開祖
2代目・塚本定右衛門氏 乱世に乗じ商才発揮 コラム 5月15日 2代目塚本定右衛門は生涯において2度大きなリスクにチャレンジ、身代を膨らました。手堅い商いを身上にする近江商人たる塚本だが、数少ない乱世型の"あきんど"であった。 安政2(1855)年、2代目塚本定右衛門は29歳になっていた。家督を継承して3年ばかりたっていたが、安政の大地震が勃発する。 この時近江商人たちは江戸壊滅の報に江戸からの撤退を急いだ。1万人を超す死者が出た大地震では、江戸の復興需要は 2代目・塚本定右衛門氏 乱世に乗じ商才発揮
橋爪源三郎氏 万年強気、鐘紡の一点買い コラム 4月24日 大阪の株の街、北浜が一番にぎわった大正時代のこと、一風変わった相場師がいた。生涯「買い」しか知らないというから、万年ブル(雄牛、強気)である。しかも投資銘柄は鐘紡(後のカネボウ)一銘柄しか張らないときている。ここまで徹底した相場師も珍しい。しかも、クリスチャンというのも異例。 「由来、相場は動くもの。その動くのは高いか、安いか、である。高くなる場合は買い、安くなる際は売るというのが 相場張りの常 橋爪源三郎氏 万年強気、鐘紡の一点買い
藤瀬政次郎氏 三井物産の顔、人として大きく コラム 4月10日 三井物産の大立者・藤瀬政次郎が大きく羽ばたくのは日露戦争の頃だ。藤瀬はシンガポール支店長、香港支店長をこなし、本店参事としてしばし羽を休めていた。 「当時すでに日露間の風雲急を告げつつあったので、藤瀬は炯眼(けいがん)をもって早く、戦時需要品を用意し、開戦とともにみずから満鮮各地に出張し、皇軍のため軍需品補給の大任に当たり、公私ともによく、所期の効果を収めた。明治38年(1905年)、上海支店長 藤瀬政次郎氏 三井物産の顔、人として大きく
岩田正一氏 「岩田相場」を支えた金庫番 コラム 3月20日 糸へん相場の震源地、大阪三品取引所がにぎわった大正時代のことである。世の中には3種類の人間がいるといわれた。お金をこしらえる人、お金を使う人、お金の番をする人の3通り。 「中でも、お金を使う人が最も多く、つくる人は少なく、番するだけの人は最も稀だ。この稀な番をするという側に属するのが、岩田正一君である。村(三品市場)で一、二番を争う分限者、現ナマ持ちで、借家持ち、借家は人に住まわせ、現ナマは自分 岩田正一氏 「岩田相場」を支えた金庫番
渡辺作左衛門氏 一朝にして巨富、一夕にして零落 コラム 3月6日 酒田は相場の神様「本間宗久」のふるさと。酒田商業会議所の第5代頭取を務めた荒木幸吉は、「酒田商業発達史」と題する講演録の中で、「べいしょ」を舞台に一朝にして巨富の利を占め、一夕にして零落した明治時代の相場師、渡辺作左衛門についてこう述べている。 「東田川郡田谷村に渡辺作左衛門という豪農があったが、回米問屋を開業し、明治12年(1879年)、『いろは倉』を手に入れ、汽船を利用して、東京に向かわせた 渡辺作左衛門氏 一朝にして巨富、一夕にして零落
横田義夫氏 日糖事件で経営危機にひんす コラム 2月20日 明治42年(1909年)操業してまだ日の浅い藤本銀行は破綻にひんした。有力取引先である大日本製糖の不正経理や経営者間の暗闘が発覚、株価が暴落する。76円台から13円台にまで崩落する。藤本王国を誇った豪華な夢も孤城落日、秋風肅殺(しゅうふうしゅくさつ)の観を呈したが、横田義夫は平賀敏を助けて整理に当たり、虎口からの脱出に成功する。そして昭和2年(1927年)の財界パニックや鈴木商店の破綻など、波瀾 横田義夫氏 日糖事件で経営危機にひんす
鷹尾寛氏 軍隊仕込みで単刀直入 コラム 株式 2月6日 大商、玉塚、山叶の中堅証券3社が合併、新日本証券が誕生するのが昭和42年(1967年)のこと。そして10年たち、3700人の社員を擁する総合証券の社長として鷹尾寛は「社員とその家族がより豊かな生活を送れるように一歩でも前進することが目標」と控えめである。 若き日の鷹尾は文学青年で歴史好きの理想主義者だったという。 「人はかくかくの努力をすれば、こういう結果が得られる――いわば自立派というか、オー 鷹尾寛氏 軍隊仕込みで単刀直入
西川伝右衛門氏 胆力あり勇敢、小成に甘んぜず大成 コラム 1月23日 西川伝右衛門は近江商人のふるさと近江国南津田村に生まれ、寛永年間(1624-1645年)に大活躍した。行商から身を起こし次第に取引先を拡大していった。「帝国富豪立身談」(谷口政徳著)は数ある成功した近江商人の中で、西川については「生来、胆勇は衆を超え、勤倹また他に比なし」とし、以下のように記している。 「壮年の頃、わずかに銀600匁を携え、荒物雑貨、菓子などを仕入れ、故郷を出で越州(新潟)に赴き 西川伝右衛門氏 胆力あり勇敢、小成に甘んぜず大成