朝刊連載小説・辻原登「陥穽 陸奥宗光の青春」(小杉小二郎 画)のバックナンバーをお読みいただけます。
日の出と共に発(た)てば、八(や)ツ(午後二時頃)までには戻って来られるだろう。尊了師に少しばかり引き止められるかもしれないが、と岡は言った。初めて登るとは言っても「町石道(ちょういしみち)」を…続き
剣術道場には、地士(じし)や豪農、富農の子弟たちも通っていた。
小二郎は、道場に冷ややかな一瞥(いちべつ)を投げ掛けただけで境内を横切り、社務所に酒を届け終えると、紀ノ川の土手道伝いに一散に家路に…続き
「お母さま、あのお船は和歌山からやって来て、筏流しは和歌山へ向かっているのですね。私たちもあの筏に乗って、和歌山へ帰れないかしら? ……初穂、水際まで降りて行かないで」…続き
ようやく入郷での生活にも馴染んで、四カ月余りが経った。この日も小二郎と母と妹たちは、朝早く田圃(たんぼ)の畦(あぜ)の草刈りに出た。今年は空(から)梅雨(つゆ)で、早朝から青空が広がる。…続き
治宝(はるとみ)隠退のあと、第十一代藩主には、第十一代将軍家斉(いえなり)の七男で、治宝の養子斉順(なりゆき)が就いたが、彼は一度も和歌山に赴任しないまま病没したため、…続き
伊達宗広は、金融行政とは別に、「御仕入方」総支配として、紀ノ川沿岸で木綿を栽培する貧窮農民を救うため、「八丈織り」と名付けた縞地(しまじ)を新たに工夫して織らせ、販路を拡大するため自ら京大坂などに…続き
紀州藩が最も活気に満ち、精彩を放っていたのは、第十代藩主徳川治宝(はるとみ)の時である。その治政は、彼の藩主在任期間の三十五年間のみでなく、隠退後も、風光明媚(めいび)な和歌の浦に近い西浜に構えた…続き
桑折(こおり)で、仙台へ向かう奥州街道に別れを告げ、羽州(うしゅう)街道(七(しち)ケ宿(しゅく)街道)を進む。県境を越えて、上山(かみのやま)まで幾つもの峠道が続く。かつては囚人護送で、…続き
那須岳の山麓に広がるナラやクヌギの深い森の中を行く。葉群はすでに色付き始めている。草鞋(わらじ)は、一日に一足はきつぶす。陸奥の衰弱ぶりは激しく、三浦が肩を貸さなければ前に進めなくなった。…続き
護送隊は千住大橋を渡った。ここからが日光街道で、荒川が眼下を流れる。およそ百九十年前、芭蕉は「奥羽長途の行脚(あんぎゃ)」を思い立ち、深川から隅田川を船で溯り、千住で陸(おか)に上がった。荒川には、…続き
陸奥は、天皇の巡幸については何も知らないでいた。
八月三十日早朝、天皇一行は皇居を出発した。鳳輦(ほうれん)に乗った天皇に供奉(ぐぶ)するのは、右大臣岩倉具視(ともみ)、…続き
三浦介雄(すけお)は、今回の裁判に紛れ込んだ異分子とでもいうべき存在だった。彼は立志社のメンバーではない。彼の容疑は、西南戦争の際、薩摩と土佐の間を往き来して、西郷の「私学校」と土佐古勤王党の提携を…続き
明治十一年八月二十一日、陸奥への判決が言い渡され、立志社系「政府転覆計画」の逮捕者全員(二十四名)の裁判が終結した。死罪に処せられた者はなく、主謀者格の大江卓、林有造、岩神昂(いわかみのぼる)、…続き