原発と津波への思い

 「自分の親を捜しに行けなかったことが今でも悔しい」──。原発事故で警戒区域になり、当時、行方不明になった家族らを捜しに行くことができなかった福島県南相馬市小高区の住民ら108世帯363人が昨年12月、遺族会を発足した。代表になった宮口公一さん(56)は、自宅を津波で流され、一緒に暮らしていた両親を失った。3度目の正月を迎え遺族会は裁判外紛争解決手続き(ADR)に申し立てることを決めた。津波被害と原発事故に対してやりきれぬ思いを抱いて約3年間を過ごしてきた宮口さんを追った (5日 19:29)

12年2月、宮口さんが小高区の自宅があった場所に手向けた花束。当時、同区はまだ警戒区域だったため自由に立ち入りができなかった

  • 震災発生から8カ月半が過ぎて、ようやく避難所から仮設住宅へと移ることができた宮口さん。両親の遺骨を手に部屋へと入った。震災発生から約3カ月後、DNA鑑定により両親の身元が確認された(11年11月)
  • 検問を行う他県の警察官。当時はまだ小高区へ通じる道路で検問が行われ、立ち入りを禁止していた。宮口さんの両親は警戒区域の中で行われた警察や消防などによる捜索で発見された(11年11月)
  • 倒れたままの墓石に雪が積もった墓を訪れた宮口さん。この年の8月に倒れた墓石を直しお盆を迎えた。両親はいまだに納骨をしていない。「仮設住宅を出て、落ち着いてから納骨したい」(12年2月)
  • 降りしきる雪の中、両親と暮らした小高区の自宅があった場所を見つめる宮口さん。震災発生の翌日未明に自宅へ戻ろうとするがあまりの被害でたどり着けなかった。約7ヵ月後の10月になってようやく一時立ち入りができた(12年2月)
  • 11年10月に宮口さんが一時立ち入りした時に撮影した小高区内の写真(左)では、地盤が下がり道路も冠水していた。12年12月に同じ場所を訪れると辺りの水が引いていた
  • 津波で流された消波ブロックが散乱する自宅周辺。宅地だった場所は雑草で荒れ果て、所々に建物の基礎だけが残っていた(12年12月)
  • 宮口さんが暮らす仮設住宅の部屋に掛けられた小高区の航空写真。「自宅の前は畑だったんですよ。自分たちが食べる分だけですが、夏にはトマトやキュウリを作って」と宮口さんはほほ笑んだ(14年1月)
  • 「震災からもう3年になろうというのに、小高区の遺族に東電はなんで謝罪がないのか」と宮口さんは憤る。両親への思いを胸に遺族会の代表として立ち上がった(14年1月)=写真 小川望

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