自民「代理職」、実力者を補佐 番頭・実務・ホープ 政治 11月27日 自民党は実力者を補佐する「代理・代行」ポストが時に耳目を集める。幹事長代理や政調会長代理らが政策決定と党内の主導権争いに影響力を及ぼす場合があるためだ。全権委任される「番頭型」や調整役を引き受ける「実務派」、次世代を起用する「ホープ」といった類型がある。 現執行部では林幹雄幹事長代理が実務派と評される。二階俊博幹事長と菅義偉首相の会談に同席し、二階氏の記者会見や各省庁幹部による政策の事前説明にも 自民「代理職」、実力者を補佐 番頭・実務・ホープ
中曽根戦略ふたたび? 風見鶏 大石 格 菅内閣発足 編集委員 コラム(政治) 政治 10月18日 新型コロナウイルスの流行で、半年延期された中曽根康弘元首相の葬儀にお邪魔してきた。永田町生活を中曽根内閣の首相番記者で始めたので、感慨深いものがあった。 会場に向かう道すがらも「いまの政治家と比べて、存在感があった」といった話し声を耳にした。 その中曽根内閣の足跡を振り返ると、発足当時の評判は散々だった。角福戦争のさなか、1979年の四十日抗争では福田赳夫氏に味方したのに、翌80年のハプニング解 中曽根戦略ふたたび?
官房長官、首相と二人三脚の「内閣の要」 菅内閣発足 政治 9月16日 「内閣の要」「首相の女房役」などと呼ばれるのが官房長官である。首相と毎日顔を合わせて二人三脚で政権運営に臨む。国会や連立与党などとの調整役を担いつつ、1日2回の記者会見もこなすため、実務能力の高さが問われるポジションだ。 歴代最長政権となった第2次政権以降の安倍内閣は菅義偉氏が一貫して官房長官を務めた。菅氏の在任日数は2016年7月、歴代1位となった。2位は森、小泉内閣の福田康夫氏、3位は吉田、 官房長官、首相と二人三脚の「内閣の要」
「政変の子年」? 首相交代、十二支で最多 経済 政治 1月10日 2020年は子(ね)年だ。夏には東京五輪・パラリンピックがある。実は歴史を振り返ると、ねずみ年も日本での五輪開催年も、なぜか首相の交代劇や政局がある年だといわれる。2つが重なる今年はどんな年になるのだろう。 ■間違いなく政局? 「今年中に政変が起きることは間違いない」。年が明けた1月1日、国民民主党の小沢一郎氏は都内の自宅で開いた新年会でこう断言した。根拠は何か。小沢氏は「ねずみ年はほとんど政変 「政変の子年」? 首相交代、十二支で最多
公明、連立相手は経世会から清和会に 政治 10月10日 自民、公明両党が1999年に連立を組んだ背景には自民党内で田中派の流れをくむ派閥との関係があった。連立に導いた当時の小渕恵三首相は田中―竹下派の流れをくむ平成研究会(旧経世会、現竹下派)の出身だった。小渕氏が急死すると公明党の相手は安倍晋三首相に連なる清和政策研究会(現細田派)になった。自民党内の「政権交代」で公明党のパートナーも代わった。 日本経済新聞の「首相官邸」の記事をもとに自公連立下での 公明、連立相手は経世会から清和会に
外交からの「総総分離」論(風見鶏) 風見鶏 コラム(経済・金融) コラム(政治) 2月24日 「総総分離という手がある」。自民党内で浮上している安倍晋三首相の党総裁4選論に、首相の外交ブレーンの一人はこう返す。 「総総分離」は総理(首相)と総裁を別の人物が務める手法だ。自民党内でたびたび持ち上がったことがあるが、一度も実現したことはない。一歩手前までいったのは1982年10月に鈴木善幸首相が退陣表明したときの後継選びだ。 鈴木、田中、中曽根の主流派は話し合いで「中曽根康弘総理・総裁」の選 外交からの「総総分離」論
麻生太郎の「俺の空」 失意の果てに得た権力 (ストーリー5) 麻生太郎物語 コラム(経済・金融) 2月8日更新 副総理・財務相の麻生太郎にとって2019年は初当選から40年の節目にあたる。78歳となったが、周囲が「吉田茂が政界を引退した<前文表示範囲/>のは85歳だ」などと話すとまんざらでもない表情を浮かべる。政治家人生を謳歌するのはむしろこれからだと言わんばかりだ。 麻生太郎の「俺の空」 失意の果てに得た権力
「このままだと日本まずい」 田中角栄と石油調達危機 コラム(経済・政治) 経済 政治 4月30日 ソビエト連邦のブヌコボ空港を飛び立った日航特別機は東に針路をとった。1973年10月10日夜。ソ連の書記長、ブレジネフとの会談を終え、緊張感から解放された日本の首相、田中角栄にとって、日本への帰路はつかの間の休息だった。 フランスを皮切りに英国、西ドイツと欧州からスタートした2週間あまりの資源外交。ソ連でのブレジネフ会談をもって、ひとまず幕を閉じた。期待が大きかった北方領土返還で決定的な言質を引 「その油、米国が回してくれるのか」(田中角栄のふろしき)
「総理になるつもりだ」(田中角栄のふろしき) コラム(経済・政治) コラム(ビジネス) 1月15日 言葉が途切れることはなかった。1972年6月11日に出版された「日本列島改造論」。71年暮れから取材が始まると、田中角栄は速射砲のように言葉を吐き続けた。 当時、角栄は通産相。大臣室で4日間、朝から夕方まで6時間、角栄は国土開発の必要性、意味、経済合理性をぶっ通しで語り続けた。角栄の言葉が止まるのは「みんなで弁当を食べている十数分間だけだった」 「日本列島改造論」の執筆、編集にあたったのは小長啓 「総理になるつもりだ」(田中角栄のふろしき)
世代交代の先頭に 6月23日 ■異父弟・西村正雄との出会い、心の重荷降ろす 昭和54年(1979年)5月12日、安倍晋太郎は異父弟の西村正雄との劇的な出会いを果たした。8歳年下の西村正雄は神奈川の湘南高校から安倍と同じ東大法学部に進み、当時は日本興業銀行常務だった。ホテルオークラ内で感激の対面を果たした異父兄弟は互いに手を取り合って喜び合った。異父兄弟とは言え、2人とも母親似で目が細く柔和な顔が実によく似ていた。安倍は後に「あ 世代交代の先頭に