有森裕子 名古屋ウィメンズマラソンでの異次元の走り
桜前線が全国に春の訪れを告げています。お花見がてらランニングを楽しんでいる方も多いのではないでしょうか。4月から新たな環境に身を置かれる方もいると思いますが、季節の変わり目でもあるので、体調、そして引き続き感染対策にはどうぞご注意ください。
さて、年明けから大きなマラソン大会が続いています。3月6日には晴天の下、東京マラソン2021が2年ぶりに開催されました。男子は、エリウド・キプチョゲ選手(ケニア)が自らの持つ世界記録に迫る2時間2分40秒で優勝するという、ハイスピードレースに。日本人のトップは、4位でゴールした鈴木健吾選手(富士通)の2時間5分28秒でした。女子の日本人トップは、その鈴木選手と結婚した一山麻緒選手(ワコール/2時間21分2秒)で順位は6位。7位には新谷仁美選手(積水化学/2時間21分17秒)が入りました。
私自身は、日本テレビの情報番組「バゲット」の企画で、初マラソンとなる田辺大智アナウンサーと小髙茉緒アナウンサーの指導サポートをするという、いつもと違う形で東京マラソンに携わりました。入社2年目(当時)で、全国高校サッカー選手権大会にも出場した経験がある田辺アナウンサーは、3時間23分00秒で完走。小学校からバドミントンを11年続けてきたという入社1年目(当時)の小髙アナウンサーは、左ヒザと右足外側の痛みを抱えながらも、5時間21分17秒で走り抜きました。たった2カ月の練習期間で、私もそう多くは練習を見られませんでしたが、2人とも勘が良く、腕振りや腹筋の力の入れ方などを少し指導すると意識してすぐに動きに反映させていました。私自身、新鮮でとても楽しい経験でした。

異次元の走りを見せつけられた名古屋ウィメンズマラソン
東京マラソンの1週間後の3月13日には、今年7月の世界選手権米オレゴン大会代表選考を兼ねた名古屋ウィメンズマラソン2022が開催されました。私は現地でテレビ中継の解説者として参加させていただきました。県から無償でPCR検査が提供されるなど、感染対策がしっかりなされた中で行われたこの大会には、10kmレースなども含めて約1万6000人のランナーが現地で参加し、7000人強の方がオンラインで参加しました。
実は、名古屋ウィメンズマラソンは、世界陸連が定める最高位の「エリートプラチナラベル」に格付けされています。エリートプラチナラベルのマラソンレースは2022年現在、ボストンマラソン、ベルリンマラソンなど、世界に12レースしかなく、日本では名古屋ウィメンズマラソンと東京マラソンが認定されています。これら12レースの中で、女子単独のレースは名古屋のみ。今年の優勝賞金は、世界最高だったドバイマラソン(20万ドル=約2300万円)を上回る25万ドル(約2875万円)ということでも話題になりました。東京マラソンの優勝賞金が1100万円でしたから、2.5倍という破格の賞金額になります。
そんなレースを制したのは、2019年世界選手権金メダリストで2時間17分8秒の自己ベストを持つ、ルース・チェプンゲティッチ選手(ケニア)でした。まさに世界トップレベルのスピードで他の選手を圧倒し、日本国内レース最高記録となる2時間17分18秒で優勝を飾りました。日本人トップは、東京五輪1万メートル代表の安藤友香選手(ワコール)が盤石な走りで2時間22分22秒をマークし、3位でフィニッシュしました。
*選手の所属は各マラソン大会開催時点のものです。
女子の2時間17分台は超ハイペースですから、目の前で異次元の走りを見せてもらったという感想ですが、実は東京マラソンで女子の優勝を飾った世界記録保持者のブリジット・コスゲイ選手(ケニア)の記録は、名古屋を上回る2時間16分02秒でした。当日は男子の高速レースがメインで中継されたので、コスゲイ選手の走りはほとんどテレビに映っていなかったのではないかと思います。勝手な希望ですが、彼女も名古屋を走っていれば、さらにすごいデッドヒートが見られたのかもしれない…とも思いました。
名古屋のレースは、序盤にペースがゆっくりすぎると感じたチェプンゲティッチ選手が、5km過ぎにペースメーカーを振り切って早くも独走状態になりました。中間点を1時間9分台のスピードで通過。30km過ぎには一時、2位のロナチェムタイ・サルピーター選手(イスラエル/2時間18分45秒)に追いつかれますが、34km付近で再び引き離して逃げ切りました。
今回のように、世界との差を感じるレースを目の前で見せつけられると、「ペースメーカーの存在とは一体なんだろう」と思ってしまいます。本来ペースメーカーは、記録を出すための存在です。作られたペースについていき、途中で抜け出して前に飛び出すような経験はできても、自分でペースを作って駆け引きするような経験は得られにくくなります。しかし、五輪や世界選手権では、当然ながらペースメーカーがいません。「ペースメーカーがいるから速く走れる」だけでは、世界で戦うことはできません。そう考えると、代表レベルの選手は、ペースメーカーがいない国際大会にも積極的に参加する必要があるように思います。

2位の選手が驚異的なスピードで追い上げた原因は?
今回のレースの一番の見どころは、2位のサルピーター選手がチェプンゲティッチ選手に30km地点で追いついてからのデッドヒートでした。サルピーター選手は5kmを15分59秒という、通常ではあり得ないスピードで追い上げたので、そのまま追い抜く力は残っておらず、並走になった時点で顎が上がり、腕の振りもぶれて疲れ切っていました。予想以上にチェプンゲティッチ選手が元気だったことも、サルピーター選手の誤算だったかもしれません。
一緒にテレビ解説した福士加代子さんとも話していたのですが、サルピーター選手がすさまじいスピードで追い上げてしまったのは、3位の安藤選手が彼女にピタッとくっついて並走した影響もあると考えられます。サルピーター選手にしてみると、チェプンゲティッチ選手に追いつきたいけれども、どのタイミングでギアを入れればいいか迷うほど、力のある安藤選手が気になり、嫌な存在になっていたのでしょう。
一方、追いつかれたチェプンゲティッチ選手には、全く動揺した様子は見受けられませんでした。スピードの上げ下げのコントロールは得意だと公言し、自分が絶対に勝つという信念を持つ修行僧のような落ち着いたメンタルの持ち主の彼女。すでに世界チャンピオンですが、27歳という年齢からも、まだまだこれからが楽しみな選手です。

動きにブレなどの不安要素がない大学生ランナーに期待
日本人選手に関して感じたことを、もう少しお話ししたいと思います。サルピーター選手についていった安藤選手は淡々とした走りが特徴で、本人は納得していないかもしれませんが、本当によくがんばったと思います。世界選手権の派遣設定記録(2時間23分18秒)を突破したものの、残念ながらあと一歩のところで世界選手権の代表には選ばれませんでした。でも、9月に中国・杭州で行われるアジア大会代表として、経験と準備を積んでほしいと思います。
また、5位に入った大東文化大学4年生の鈴木優花選手も、注目すべき見事な走りだったと思います。彼女は自分の身体をよく知り、動きにうまく反映させていると思いました。ウエートトレーニングの成果かもしれませんが、フォームを見ていても動きにブレなどの不安要素がなく、腹斜筋や腹筋をつなぐ大腿部がしっかり鍛えられていて、脚の引きつけも含めて安定感を覚える力強い走りでした。4月からは第一生命グループ女子陸上競技部の所属選手として走りますが、バルセロナ五輪女子マラソン4位であり監督の山下佐知子さんもとても期待している選手です。
今回の大会を総合的に見ると、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の記録を突破したのは8人。東京マラソンよりも多い人数なので、女子選手も少しずつレベルアップしているなと感じました。3月29日の選考で今夏の世界選手権代表に選ばれた一山選手、松田瑞生選手(ダイハツ)、新谷選手にはしっかり準備して、世界へのチャレンジで、より自らの可能性を引き出してほしいと思います!
深刻な世界情勢を素通りするオリンピアンになりたくない
最後に触れておきたいのは、ロシアによるウクライナ侵攻がスポーツの世界に与えた影響についてです。マラソン大会でランナーがウクライナの国旗の色のコスチュームで走るなど、海外では多くのトップアスリートがさまざまな形で平和を願い、反戦を訴えているシーンを目にします。それは、「スポーツ=平和の象徴」であるからです。
しかし、日本のスポーツの公の場では、コロナの話題は出ても、戦争に対する思いやメッセージを発信する人が少なく、話題にする人もあまりいないように感じています。われわれが学び足りない両国の深い歴史や事情は多々あると思いますが、このようなとき(もちろん日常的にも)、平和を願う発信はできるように思いますし、この問題に全く触れようとしない状況に、私自身はやや違和感を覚えています。
そんななか、名古屋ウィメンズマラソン前日の組織実行委員会で、出席者として「大会を盛り上げるためにコメントをお願いします」と振られる機会があったので、このようなコメントをさせていただきました。
この大会の歴史を振り返ると、私が1992年のバルセロナ五輪、1996年のアトランタ五輪で戦った同志であり、友人であるロシア人のワレンティナ・エゴロワ選手が活躍した大会でもあります。
しかし今は、ロシアの選手が活躍することが困難な状況になってしまっている。それは、平和と切り離せないメッセージ性を持つ意味・意義が、スポーツにはあるからです。私自身、参加者の皆さんとともに、こうした世界情勢の中でも走ることができていることを忘れずにいたいと思います"
スポーツは社会で健康・健全に生きていくための大切な手段だと私は常に考えています。そんな中で、深刻な社会情勢の話題を避けて通ることへの違和感や、自分は何を発信できるかという問いかけを、私はいつも持っていたいと思っています。平和の象徴であるスポーツに携わってこられた身だからこそ、平和に対するメッセージをできる限り、できる範囲で発信したいと考えています。
(まとめ 高島三幸=ライター)
[日経Gooday2022年4月8日付記事を再構成]

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