末続慎吾さん 39歳の今もプロ陸上選手として走る理由
元五輪陸上メダリストに聞く(上)

世界と互角に戦える今の日本の陸上競技男子短距離界、その功労者の一人とも言えるのが末続慎吾選手だ。2003年の世界陸上パリ大会男子200mで日本短距離界初となる銅メダルを獲得。さらに同年100mで10秒03、200mでは日本記録となる20秒03を樹立し、その記録は今なお破られていない。2008年の北京五輪では日本代表チームの一員として、4×100mリレーで銅メダルを獲得(優勝したジャマイカチームが失格となり、2018年に銀メダルに繰り上げになった)。五輪の陸上トラック種目で日本人男子初のメダルをもたらした。
そんな末続選手は39歳になった今も、プロ陸上選手として現役を続けている。プロの名を掲げて今もなお走り続ける理由や、加齢とともに変化するトレーニングについて、3回にわたってお話を聞く(インタビューは2020年2月17日に実施しました)。
――2020年2月に東京・府中市で行われた「府中駅伝競走大会」に、ご自身が主催されるイーグルラン・ランニング・コミュニティ(ERC)のメンバーと出場され、1区の4.3km(約18分)を完走されました。長距離も得意なのですか?
苦手です。これまで高校時代に走った2kmのクロスカントリーが最長で、東海大学時代の練習でも400m以上の距離を走るトレーニングは避けていたぐらいなので、人生で一番長い距離を走りました(笑)。ゲストランナーとしてご招待いただいたのですが、手を振りながら少し走るよりも、駅伝メンバーの一員としてちゃんと走った方が市民ランナーの皆さんも喜んでくださると思って。
――走ってみていかがでした?
3km過ぎから特にきつかったです。でも僕は39歳ですが、長距離の練習を一切せずに完走できたのは、やはり陸上選手としての走り方の技術を持っていて、省エネで走ることができたからだと思います。それを実感できただけでも面白かったですね。
アスリートの「セカンドキャリア」に疑問
――2019年の全日本マスターズ陸上では男子M35(35~39歳)の100mで、向かい風1.8mの中、10秒89の大会新記録で優勝し、今年も6月(編集部注:新型コロナウイルス感染症拡大防止のため秋に延期することが決定)の日本選手権出場を目指されます。40歳を迎える今も現役を続ける理由は?
陸上競技の場合、元五輪選手だとしても、多くの人はプロではなくアマチュアというくくりです。アマチュアスポーツには引退がない。だからあえて「引退します」と宣言する必要もないし、本人が望むなら生涯走り続けていいと思っています。競技スポーツのトップシーンで走れなくなったからといって、じゃあ引退なのかと言われるとそうではないと思うのです。
アスリートの「セカンドキャリア」という考え方自体に疑問があります。もちろんそういう考え方も大事だし、一旦区切りをつけて新たなキャリアを考えるというのは自分も周囲も分かりやすいですよね。一方で、「セカンドキャリアって何だよ」という思いもあるんです。あくまでも僕の持論ですが、人生をかけて競技に挑み、結果も出して多くの人に感動や元気を与えた揚げ句、なぜキャリアを一度断絶し、方向転換したりしなければいけないのかと。なぜコツコツと築いてきたキャリアを諦めるような思考を持たなければいけない世の中なのかと。

――諦めるとは?
肩書をわざわざ変えず、自分ができることの幅を広げたり、高めたりすればいいのではないかという思いがあります。陸上競技をはじめとした日本のアマチュアスポーツで活躍したアスリートは、トップレベルから脱するとそれまで、のように感じています。海外ではトップアスリートに対して、現役を退いた後も世間は敬い、その功績に対する対価という恩恵を受けられる文化がある。何よりも活躍したトップアスリート自身が、自身の功績に対して誇りを持って生きているように見えるのです。
だから僕ももっと誇りを持って生きたい。今までやってきた努力やキャリアをそのまま継続していくという意味で、2015年に所属していたミズノをやめて、陸上短距離プロアスリートと名乗ることにしました。先ほども話した通り、陸上はあくまでアマチュアスポーツなので、トップアスリートとしての技術やメンタルを生かした仕事のプロというイメージでしょうか。だから競技も続けるし、今までの経験や技術を生かして、五輪を目指す選手にパーソナルに教えたり、地元の陸上教室で子どもたちに指導したり、現役選手に関する解説といったメディアでのお仕事をさせていただいたりしています。
経験を人に伝え、教えて、世の中に影響を与えていくことで、競技のトップシーンに立たなくてもアスリートとしてのキャリアを継続していく。ちょっと抽象的で分かりにくいかもしれませんが、「セカンドキャリア」という言葉に覚えた違和感を大切にして、僕なりのアスリートとしての一つの働き方や生き方を提示できればと思っています。
――北京五輪の4×100mリレーでメダルを獲得した後、無期限の休養を宣言され第一線から退かれました。こうした考え方になったのも、このときの休養宣言の影響があるのでしょうか。
そうですね。2003年のパリで開催された世界陸上で、世界大会短距離種目で日本人初の銅メダルを獲得して以降、「五輪でも日本人初のメダル獲得」という国民の期待を感じました。しかし、2004年のアテネ五輪では、リレーは4位、個人では決勝に残れず、結果が出ないことに周り以上に僕自身ががっかりしたんです。そのプレッシャーが大きくのしかかり、原因不明の手の震えを覚えたりしました。
2008年の北京五輪ではリレーでメダルを獲得しました。うれしい気持ちもあったけれど、それ以上に「日本代表として五輪の舞台でメダルが取れてよかった…」とほっとするような安堵の気持ちが大きかったですね。重責を果たす経験を若いうちにしておくのは必要かもしれないけれど、僕はその後、気持ちが崩れてしまいました。親や恩師と話すと涙があふれてきて、手の震えが止まらず、無期限の休養宣言をしてしばらく地元熊本に帰りました。
メダリストはどこまで頑張らなければいけないのか
――そのときどんな気持ちだったのでしょう。
何でこんな気持ちにならなければいけないんだと思いました。世界レベルの大会で2個のメダルを取ったのに、期待されていた五輪での個人種目がダメだったから、こんな惨めな気持ちにならなければいけないのかと。もっと頑張らなければいけないという、僕には圧に近い周囲の期待もしんどかった。メダリストはどこまで頑張らなければいけないのだろうと思ってしまいました。

――競技から退くのではなく、休養を選んだのは?
こんな状態だったら、普通なら競技をやめればいいと思いますよね。そこは九州男児の血なのか、気持ちは弱っているけれど、「絶対やめない」という悔しい気持ちも正直あったりして…。面倒臭いところがあります(笑)。
――休養宣言の後、どんな生活をされていたのでしょうか。
当時所属していたミズノにお世話になりながら、ごく普通の一般人の生活を送っていました。とにかく走れませんでした。走りたいと思えないし、走ろうと思ってもグラウンドに行けませんでした。無理に行ったら、手が震えてくるんです。
◇ ◇ ◇
この後、末続さんは休養宣言をし、無期限の休養に入る。その期間をどのように過ごし、9年後の復帰に至ったかを次回記事で紹介する。
(ライター 高島三幸、写真 厚地健太郎)
[日経Gooday2020年5月11日付記事を再構成]

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