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2020年12月6日(日)
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【瓶詰め・充填装置大手】無菌充填機に定評。ボトリング機の国内シェア6割。

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業界トップの倒産劇 兄弟の確執と依存体質
平成倒産史(第4回)

コラム(ビジネス)
自動車・機械
2019/10/12 2:00
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マキ製作所の本社。浜松を代表する企業の破綻だった

マキ製作所の本社。浜松を代表する企業の破綻だった

日経トップリーダー

2000年代に入るとITバブルを経て、02年頃には景気が反転。日本経済に明るい兆しが見えました。しかし、その陰でひたひたと大きな構造変化が進みます。人口動態の変化です。00年頃をピークに日本の生産年齢人口(15~64歳)は減少に転じます。

景気が回復しても経営が楽にならないことに、多くの経営者が違和感を覚えていました。ただ、その違和感の原因が人口減少だと見抜いた経営者は、少なかったでしょう。

製造業はパソコンや携帯電話の市場拡大などで比較的潤っていましたが、人口減少の影響を受けやすいサービス業では顧客の奪い合いが激化し、価格下落が進みました。

例えば外食業界では、00年に日本マクドナルドが「平日65円バーガー」を発売。翌01年には吉野家が牛丼並盛りを280円に値下げし、デフレの流れを決定づけました。1990年代はバブルを引きずった売上至上主義からの脱却が求められましたが、2000年代は市場縮小に対応した新しい事業モデルへの転換が、経営者に問われたのです。

変化対応が遅れた企業は、人口減少の下で、真綿で首を絞められるように年々、苦しみが増していきました。それは業界の有力企業にも、容赦なく襲いかかります。選果機というニッチな市場においても、その流れは巡り巡って押し寄せ、農協依存からの脱却に遅れたマキ製作所が破綻しました。

ケーススタディーは日経トップリーダー(旧・日経ベンチャー)の記事を基にしています。当時とは状況が変わっている部分もありますが、原則そのまま掲載しています。また、社長名や関係者名は仮名にしています。原因の分析がこの記事の目的であり、実名の記載によって当事者に迷惑をかけることは本意ではないからです。ご了承ください。

■ケーススタディー:マキ製作所[選果機メーカー]

これほどの「突然死」も珍しい。2007年9月27日の昼過ぎ。ジャスダック上場のマキ製作所が破綻――との一報が業界を駆け巡った。「何かの間違いだろう」。取引先や同業はもちろん、同社社員にとっても寝耳に水だった。

同社は青果物を大きさや品質によって選別する選果機で、50%以上の国内シェアを持つ業界のトップメーカー。07年8月に開いた第1四半期の決算発表会では、長坂岳人社長(仮名)が「通期で増収増益を確保できそう」と業績好調をアピールしていた。

だが、その1カ月余り後に一転。23億円の債務超過に陥って資金繰りに窮し、9月末日の手形決済ができないとして、民事再生法の適用を申請した。負債総額は112億円に上る。直近の07年3月期の売上高は106億円、経常利益2億5000万円だった。

マキ製作所の経営破綻は突然だった

マキ製作所の経営破綻は突然だった

長坂社長は9月27日の記者会見で、「中期経営計画を作るに当たり在庫を評価し直したところ、帳簿上の在庫66億円のうち、44億円分に資産価値がないと判明した」と語った。

だが、10月1日に開いた債権者集会で長坂社長はこう明かしたという。「あるべきはずの在庫が、相当程度、見当たらなかったのです」。在庫の価値がないのではなく、そもそも多くの在庫が存在しなかったという。

長坂社長は07年3月に、メインバンクから同社に転じ、6月に社長に就任したばかり。その発言は、前社長時代の経理処理のずさんさをにじませた。

だが破綻の種は、創業者が他界した22年前に既にまかれていたのかもしれない。

マキ製作所の前身、槇農研工業は1957年の創業。61年に熊谷和之氏(仮名)が事業を引き継ぎ、マキ製作所を設立した。和之氏は、東証一部・大証一部上場企業の創業者でもある。上場企業の社長退任後、54歳でマキ製作所を興すと、翌年には青果物を重さで選別する機械を開発、事業を成長軌道に乗せた。

70年代後半から、選果機の技術は大きく進歩する。同社は青果物の形や色を瞬時に計測する画像処理システムやカラーセンサーシステムなどの開発の多くで他社に先駆け、「技術のマキ」(ある農協関係者)と称されるほどだった。

技術開発や市場開拓で成功を収めた和之氏だったが、後継者選びでつまずいた。当初、和之氏は、長男の博氏(仮名)を後継者として育てた。80年頃、高齢になった和之氏は社長を博氏に譲り、自身は会長に退く。

だが、直後から経営方針を巡って2人は頻繁に対立するようになったという。そこで和之氏は、「博氏を引きずり降ろして会社も辞めさせ、再び社長に戻った」(関係者)。和之氏はすぐに二の矢を継ぐ。東京の会社に勤めていた二男の達也氏(仮名)を呼び寄せた。このとき、和之氏は既に70代後半。自ら帝王学を教え込む時間はないと考えたのか、補佐役を付けて、達也氏をすぐに社長に据えた。補佐役として副社長に迎えたのが、メインバンクに勤めていた小柳隆氏(仮名)。これを機に、同社はメインバンクの影響を強く受け始める。

達也氏の社長就任から2年後の85年、和之氏が79歳で他界。直前までサラリーマンで、年齢も30代後半と若かった達也氏に社長業は重荷だったのか、「社長業そっちのけで、和之氏の遺産を元手に株式投資にのめり込むようになった」(元役員)。

そして社長就任から5年後、達也氏はほかの役員たちの手で会社を追われる。社内には和之氏の娘婿がいたが、創業家の相次ぐ失態の後ということもあってか、後任には副社長の小柳氏が就いた。

■コスト意識甘いまま追い風に乗って株式上場

「銀行出身の小柳氏はものづくりについてはよく分かっていなかった」と、元役員の1人は振り返る。「社内のコンピューターシステムを切り替えるとき、製造過程で部品一個一個を原価管理するのは面倒だからと、選別ライン、搬送ラインなどのユニット単位に変更させた。これで、部品ごとの歩留まりすら分からなくなった」

だが、たとえコスト意識が甘くても、会社は成長を持続できた。全国の農協が最大の顧客という、選果機業界特有の事情があったからだ。

選果機は普通、一案件で2億~3億円を超す商談になる。選果機だけでなく、青果物を送り込む搬送ライン、選別後に箱に詰める封かんラインなど、前後のラインを含めて一括受注するためだ。同社は選果機を製造するが、その他の機械類の多くは外部メーカーから購入し、選果プラントとして納入する。

同社の利幅は大きかったという。というのも、農協が払う費用の多くが、自前の資金ではなく、国や自治体からの補助金だったからだ。「90年代は、購入費用の7割が国からの補助金。自治体からの補助金と合わせれば、ほとんど自前で払わずに選果プラントが買えたこともある」(ある農協関係者)。

国内の選果機メーカーは10社に満たない。技術力が高い同社は、コスト削減に身を削らなくても何とか生きていける。そんな「恵まれた」環境だった。

余勢を駆って、マキ製作所は95年に株式を店頭登録(その後、ジャスダックに上場)する。95年3月期の売上高は192億円。だが、業績はこれをピークに下降を始める。

わずか2年後の97年3月期には、売上高は113億円に落ち込み、2億5000万円の経常赤字に陥った。農協の合併が進み、選果機の購入を先延ばしにする農協が相次いだためだ。農協頼みの経営が、もろさを露呈するかたちとなった。

赤字決算を機に97年6月、社長が小柳氏から鹿島雄一氏(仮名)に交代する。鹿島氏もまた、メインバンク出身。社長交代の2カ月前に同社に移ったばかりで、「選果機業界には詳しくなかった」(元役員)。

このとき、プロパー役員の中から社長を選ばず、「天下り」を受け入れたのは、メインバンクが大株主として同社の経営に力を持っていたからだ。

創業者の長男博氏も、二男達也氏も、会社を去った後に持ち株の大半を手放している。メインバンクの持ち株比率は直近でも5%にすぎないが、メインバンクが大株主の企業、金融機関、さらにそれらが大株主の企業が持つ株を合わせると、持ち株比率は3分の1以上になり、実質的な筆頭株主といえる。このため人事についても、「小柳氏の在任中に、メインバンクから人が送り込まれ、役員や部長のポストに就いた」(関係者)といった状態で、メインバンクの影響力は強かった。

■売り上げを優先、利益出ない仕事も受注

農協の合併が一段落すると業績はやや持ち直したが、2002年度から再び低迷する。農協への補助金が削減されたためだ。90年代、日本の農業は「カネ余り」状態だった。コメの輸入を部分開放するに当たり、対策費(ガット・ウルグアイ・ラウンド対策費)の名目で6兆100億円が「ばらまかれた」。だが、それも底を突き、選果機市場は一気に冷え込んだ。「市場規模は90年代の半分の約150億円に縮小した」(関係者)

マキ製作所は、採算割れ覚悟で仕事を取り始めた。「我々の入札価格とは比較にならなかった。マキさんが入札メンバーにいると知ると、今回は無理だなと諦めた」と、同業他社の担当者は明かす。そこまでしても減収は免れず、採算も悪化。02年3月期、03年3月期と2期連続で最終赤字に転落する。

それでも、危機感は薄かったようだ。「少し待てば環境が好転して補助金が潤沢に出るだろうし、いよいよ困ったらメインバンクが助けてくれると、鹿島氏らはタカをくくっていたのでは」と、鹿島氏をよく知る複数の関係者は話す。「鹿島氏に意見する役員や幹部社員は飛ばされた。一方で、子飼いの役員や幹部社員は鹿島氏に連れられ、よく浜松の繁華街で飲み歩いていた」と、口をそろえて関係者は指摘する。

メインバンクからの借り入れは年々膨らみ、破綻直前の07年8月末時点で約40億円に上る。ほかの金融機関を合わせると、借入金は計88億円に達する。売り上げ100億円強の企業には多大な負担となっていた。

鹿島氏も手を打っていた。農協とのパイプを強化するために、営業所やメンテナンス拠点を増やした。「プラントを買ってくれれば、選果場のそばにメンテナンス拠点をつくるという条件も農協に示していた」(関係者)という。

同社は、農業分野以外に乗り出そうと過去に何度も挑戦したが、うまくいかなかった。「農協相手の仕事は恵まれている。選果機メーカーでは、他業界の厳しいコスト要求についていけない」と、ある同業他社は指摘する。だが、鹿島氏は売り上げを確保するため、工場の物流ラインの建設業務に乗り出す。

その実態は、「物流システムの大手メーカーから部品を一括購入し、それを派遣会社から集めた人に組み立てさせるもの」(元役員)。年間10億円以上の売り上げが立ったが、利益はほとんど出なかったという。

ある関係者は言う。「300人の社員をリストラして、70億円くらいに売り上げを下げても利益が残るようにスリム化すればいいのではと進言したが、鹿島氏は取り合わなかった。売り上げ100億円という大台にこだわっていたようだ」

本丸の売り上げが下降し、新規事業も大きな利益を生まない。しかも、大胆なリストラにも踏み切れない。ここ数年の売り上げは、100億~110億円前後で推移していたが、資金繰りは限界に近かった。この間、社内に「実体のない在庫」が膨張したのだろうか。そして07年6月、10年間にわたり権勢を振るった鹿島氏が会長に退いた直後に、在庫評価の問題が表面化した。だが、もはや会社は瀕死状態だった。

鹿島氏は債権者集会に顔を見せないまま、07年10月15日に会長を辞任した。マキ製作所は08年に澁谷工業に事業を譲渡した後、解散した。

(日経ベンチャー2007年11月号掲載)

なぜ倒産 平成倒産史編

著者 : 日経トップリーダー編集部
出版 : 日経BP
価格 : 1,728円 (税込み)

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