2019年6月19日(水)

政客列伝 前尾繁三郎(1905~1981)

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牛の歩み、岸内閣で通産相に 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(2)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/11/20 7:00
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前尾繁三郎は1948年(昭和23年)11月、民主自由党本部に広川弘禅幹事長を訪ねて出馬の意思を伝えて公認を申請した。前尾が戦時中、国税第二課長をしていた時に広川は東京酒販の組合長をしており、その時は「広川君」と呼んでいた仲であった。いまや広川は吉田茂首相のお気に入りの側近で飛ぶ鳥を落とす勢いの民自党幹事長であった。この年の12月23日に衆議院が解散となり、造幣局長を辞めて大蔵省を退官した。1949年(昭和24年)の元旦から前尾は選挙区をトラックで駆け回った。

■京都2区から3位で初当選

総選挙に初出馬した前尾繁三郎

総選挙に初出馬した前尾繁三郎

京都2区は前尾の郷里・宮津がある丹後、さらに福知山や亀岡などの丹波、京都市の右京区、伏見区、さらに宇治などの南山城を含む広い選挙区である。前尾の公約は第1が政界の浄化、第2が取引高税の廃止、第3が行政整理と統制解除であったが、演説は「大学の先生の講義を聞いているようで面白くない」と不評だった。この選挙区には演説の名手である民主党の前首相・芦田均がいた。刑事訴追を受けた芦田は危機感を募らせ、「泣いて涙の1票を」と気迫を込めた演説を各地で展開していた。

京都の冬は寒い。酒好きの前尾は選挙トラックに七輪を持ち込んで熱かんをちびりちびり飲みながら各地を遊説したが、酒が入っても演説は一向に上達しなかった。前尾の選挙を支えたのは各地の税務官吏の隠れた支援だった。丹後の織物組合、漁業組合のほかに右京区の料飲組合、宇治の茶業組合など支援団体や支援企業が次第に広がっていった。松下幸之助が貸してくれた、当時では珍しい高性能マイクも前尾陣営の士気を高めた。開票の結果、前尾は4万5千票余りを獲得して定員5人中、3位で初当選を飾った。43歳だった。

▼初入閣までの歩み
1949年(昭和24年)1月
総選挙で京都第2区から初当選
1950年(昭和25年)5月
衆議院地方行政委員長に
1951年(昭和26年)10月
欧米各国を視察旅行
1952年(昭和27年)1月
自由党政調副会長に
1955年(昭和30年)11月
旧吉田派で保守合同参加を主張
同年12月
衆議院外務委員長に
1957年(昭和32年)6月
宏池会(池田派)結成に参加
同年7月
岸内閣で通産大臣として初入閣

選挙戦で前尾は地元の京都新聞に「牛のような男」と書かれた。前尾はもっさりとした風貌で当時はかなり太っていた。以後、「牛」が前尾のニックネームとなり、政界では「暗闇の牛」と呼ばれるようになった。

民自党は264議席で圧勝した。前尾の兄貴分の池田勇人や佐藤栄作、前尾と一高同期生の遠藤三郎、西村直己ら新人124人が当選した。選挙後の第3次吉田内閣で池田は1年生議員でいきなり大蔵大臣に就任した。すでに非議員で第2次吉田内閣の官房長官だった佐藤は民自党政調会長になった。吉田首相は次官経験者は1年生議員でもどんどん要職に起用したが、局長止まりの前尾は牛のような遅い歩みであった。

1年生議員の前尾はまず衆議院大蔵委員会の委員になった。昭和25年、シャープ勧告に基づく税制改正案では衆議院本会議で賛成討論に立った。前尾は税の専門家であったので初めての本会議演説は選挙演説と違って非常に好評だった。同年5月、衆議院地方行政委員長に就任した。

戦前の帝国議会は英国のように本会議が中心だった。新憲法下の国会は米国式の委員会中心の制度になった。常任委員長には星島二郎、植原悦二郎ら大物議員が就任し、前尾の前任の地行委員長も戦前派のベテラン・中島守利であった。前尾が委員長になって1カ月後に政務次官の交代があり、前尾は自治庁の政務次官となるように勧められたが、国会の常任委員長が政務次官になるのは筋が通らないと断った。以後、政務次官の話は2度と来なかった。

■池田政調会長―前尾政調副会長

1951年(昭和26年)秋、前尾はスポンサーである水野成夫(国策パルプ会長)の資金援助で、税制と金融の調査を目的に欧米各国歴訪の旅に出た。帰国して昭和27年1月、水田三喜男政調会長の下で自由党政調副会長になった。このころ、広川弘禅は「君を大臣にしようと思うのだが、池田君が早すぎるというのでな」と前尾を慰めた。「私は当時は江戸川アパート(有名な高級アパート)に住んでいて、一高の先輩・水野成夫氏が歳費と同額の5万円の月給をくれていたので、すこぶるのんきに牛の歩みを続けることができたのである」と述懐している。

昭和27年8月の抜き打ち解散で前尾は2回目の当選を飾った。今度も京都2区のトップは芦田で前尾は3位だった。選挙後の第4次吉田内閣で木暮武太夫が政調会長になり、前尾は副会長にとどまった。選挙では演説のうまい芦田にかなわないので「選挙は芦田、仕事は前尾」と割り切り、与党の政調副会長の立場を生かして地元の陳情処理に力を入れるようにした。半年後の昭和28年3月のバカヤロー解散で前尾は3回目の当選を果たしたが、吉田自由党は過半数を大きく割り込んだ。京都2区ではまたしても芦田がトップで前尾は3位だった。この選挙で前尾と懇意だった広川が吉田首相に反旗を翻して失脚した。

選挙後の第5次吉田内閣で池田が政調会長となり、前尾は引き続き副会長としてコンビを組んだ。重要案件は改進党と提携・協調しなければ何も通らない状況だった。計画造船に対する利子補給法改正案についても前尾は改進党の河本敏夫と折衝して原案の作成にあたった。間もなく造船業界の関係者が前尾の自宅を訪ねて金包みを置いていこうとしたが、前尾は受け取りを拒否した。

自宅の書庫でくつろぐ前尾繁三郎

自宅の書庫でくつろぐ前尾繁三郎

昭和29年の年明けから造船疑獄が表面化して政界は騒然となった。前尾も同年4月、東京地検から2度の取り調べを受け、新聞にも「逮捕必至」と書かれた。前尾にとっては不本意だったが、事件の解明は指揮権発動によって先送りされた。同年末に吉田自由党内閣が退陣し、1955年(昭和30年)1月、鳩山一郎民主党内閣は衆議院を解散した。前尾は初めて野党の候補者として選挙を戦った。前尾が造船疑獄と無関係であることは初公判の検察の冒頭陳述で明らかにされたが、世間には周知が徹底されていなかった。加えて警察の選挙違反の摘発が厳しく、前尾の秘書が拘引され、事務所も家宅捜索を受けた。苦しい選挙戦だった。それでも前尾は芦田に次ぐ第2位で当選した。

■丹後から初の大臣誕生

選挙後、民主党と自由党の保守合同の動きが急進展したが、池田と佐藤は最後まで保守合同に反対した。前尾は「天下の大勢は保守、革新の二大政党対立の方向にある。社会党がすでに左右両派が合同し、国民がこれだけ保守合同を望んでいる以上、合同はやらなければならない」と考え、池田と決別してでも保守合同に参加すると頑張り通した。池田は土壇場で翻意して保守合同参加を決断した。前尾は西村らと佐藤の説得にも乗り出した。佐藤の自宅を訪ね、深更まで「池田も翻意したのだからあなたも」と口説いたが、佐藤は「自分を造船疑獄に陥れた鳩山の傘下に入るわけにはいかない」と最後まで応じず、前尾もあきらめて引き上げた。

岸内閣に通産大臣として初入閣した前尾繁三郎(4列目左)=朝日新聞社提供

岸内閣に通産大臣として初入閣した前尾繁三郎(4列目左)=朝日新聞社提供

保守合同に吉田と佐藤が参加しなかったため、旧吉田派は池田が預かることになり、「丙申会」と名乗った。保守合同後、前尾は衆議院外務委員長になった。外務委員会の大ボスは選挙区のライバル・芦田であったが、同じ政党の所属になったため「きのうの敵はきょうの友」となり、前尾はさまざまなアドバイスを芦田から受けた。芦田も旧吉田派も鳩山首相が進めた日ソ国交回復交渉には批判的で、池田と芦田らは日ソ共同宣言の国会承認の際の採決を棄権した。1956年(昭和31年)末の自民党総裁選で旧吉田派は池田派と佐藤派に事実上、分裂した。昭和32年6月、池田派は「宏池会」を旗揚げした。池田派は林譲治、益谷秀次の両長老が池田の後見人となり、前尾は内務官僚出身の大橋武夫らと並ぶ幹部となった。

同年7月の岸改造内閣で前尾は通産大臣として初入閣を果たした。51歳、丹後出身の政治家としては初めての大臣誕生であり、地元は沸きに沸いた。通産大臣として中小企業団体組織法を成立させ、繊維不況の救済に初めて織機の買い入れ措置をとった。また、アラビア石油の油田開発の許可、日本貿易振興会(ジェトロ)、中小企業信用保険公庫の設立に尽力した。昭和33年5月の総選挙ではついに芦田をぬいて初めてトップ当選を飾った。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 前尾繁三郎著「私の履歴書・牛の歩み」(74年日本経済新聞社)
 前尾繁三郎著「政治家のつれづれ草」(67年誠文堂新光社)
 前尾繁三郎著「政治家の歳時記」(60年誠文堂新光社)
 前尾繁三郎著「政の心」(74年毎日新聞社)

※1枚目の写真は前尾繁三郎著「私の履歴書・牛の歩み」、2枚目は同「十二支攷」第1巻より

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