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日米外交60年の瞬間 第3部

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第3部 一覧

「アジアの孤児」論も サンフランシスコヘ(55)

 61年前のあさっての話である。1951年9月3日午後4時、サンフランシスコ滞在中の吉田茂首相は、全権および全権代理を前に訓示した。
 外交官出身の吉田を別にすれば、必ずしも外交舞台になれているとはいえ…続き (2012/9/1 7:00)

ドッジ登場に驚く日本全権団 サンフランシスコへ(54)

マークホプキンズ・ホテル=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 サンフランシスコには要人が相次いで到着する。日本では「ドッジライン」で知られるデトロイト銀行総裁のジョセフ・ドッジも1951年9月2日、サンフランシスコに到着した。米全権団顧問の資格でのサンフランシ…続き (2012/8/25 7:00)

毛沢東、スターリンが電報交換 サンフランシスコへ(53)

スターリン首相=共同

共同

 サンフランシスコを横目でにらむかのように、1951年9月2日の新華社電は、サンフランシスコ講和会議を揺さぶるソ連と中国の動きを伝えた。毛沢東主席がスターリン首相に電報を送り「日本侵略勢力の再起をはばむ中ソ同盟は中国人民の反侵略闘争に無限の激励となっている」と述べた。…続き (2012/8/18 7:00)

60年前の吉田流パブリック・ディプロマシー サンフランシスコへ(52)

ホノルルの国立太平洋記念墓地で献花する吉田茂=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 対世論外交とでも訳すべきパブリック・ディプロマシーという言葉がある。1951年9月の時点で、この言葉があったかどうかはわからない。
 多分なかっただろう。ただし大きな外交活動を展開するうえで自国、相手…続き (2012/8/11 7:00)

首相は米国務長官の同格者? サンフランシスコヘ(51)

ディーン・ラスク=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月2日午後6時(日本時間3日午前11時)、吉田茂首相はアチソン米全権を宿舎パレスホテルに訪問、40分間にわたって懇談した――。
 事実をそのまま伝えた9月4日付日経に載った記事の書き出しの…続き (2012/8/4 7:00)

日本の「心構え」説いた日経 サンフランシスコへ(50)

単独講和に反対する大学生のデモ行進=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月4日付日経社説を続ける。直接その言葉を使っているわけではないが、強調されたのは、自立の精神を持てとする日本国民に向けたメッセージだった。それは講和反対ではなかった。…続き (2012/7/28 7:00)

短かったポーツマスとサンフランシスコの間 サンフランシスコへ(49)

ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎(外務省外交史料館蔵)

外務省外交史料館蔵

 1951年9月初めは、日本の新聞史のなかで特筆すべき時だった。講和への集中的な報道・論評があったからである。
 いまよりもずっと経済報道に傾斜していた日本経済新聞ですら、9月4、5、6、7、8、9日と…続き (2012/7/21 7:00)

朝鮮交渉が決裂含みに サンフランシスコへ(48)

サンフランシスコに到着したトルーマン米大統領(左)=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 休戦会談の場所を移すと国連軍が提案するかもしれない――。原稿を書いたチャップマン記者が忙しいなかを取材に駆り立てた事実があった。
 サンフランシスコ会議をにらみ、朝鮮では戦闘が激化しただけでなく、戦闘激化を理由に双方の軍事当局者間の舌戦も激しくなっていたのである。
…続き (2012/7/14 7:00)

太平洋条約で滑り出す サンフランシスコへ(47)

アチソン(右)とダレス=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月、世界の耳目はサンフランシスコに集まっていた。対日講和会議の最初の成果物は9月1日に結ばれた太平洋条約だった。太平洋条約については、この物語でも既に触れたが、署名された事実は歴史的とさ…続き (2012/7/7 7:00)

踏み絵の講和会議を避けたインド サンフランシスコへ(46)

 1951年9月1日(サンフランシスコ時間)、米国務省は対日講和会議の日程を正式発表した。ソ連が議事手続きを妨害する可能性があり、直前まで日程を固めきれないでいたらしい。
…続き (2012/6/30 7:00)

異例の首相挨拶の新聞広告 サンフランシスコへ(45)

サンフランシスコ空港に到着後、報道陣にステートメントを読み上げる吉田茂=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月の日本は講和で沸き立っていた。当時の日経第3面にそう大きくないが目立つ広告が載っている。吉田茂首相のあいさつ文である。
 全文を紹介する。
「御挨拶 小生渡米に際し寄せられたる御厚意に対し…続き (2012/6/23 7:00)

祝賀ムードの出発風景の陰に サンフランシスコへ(44)

講和会議に向け羽田を出発する日本全権団(左から徳川宗敬、苫米地義三、吉田茂、池田勇人、一万田尚登、星島二郎)=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 講和会議を取材する日経・大軒記者らより2週間遅れ、1951年8月31日、午後5時10分、吉田茂首相ら全権団が羽田空港からサンフランシスコに向け出発した。
 当時の日経は「独立への門出」「祝う万歳の声」…続き (2012/6/16 7:01)

マッカーサーが再軍備の勧め サンフランシスコへ(43)

 1951年8月23日、対日講和をめぐって様々な動きがあるなかで、この物語の第1章の主役が再び顔を出した。マッカーサー元帥である。
 マッカーサーは吉田茂首相あてに書簡を送り、そのなかで日本の再軍備を求…続き (2012/6/9 7:01)

賠償条項でアジアに配慮した最終草案明らかに サンフランシスコへ(42)

帰還船から手を振る引き揚げ者たち=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年当時の日本は夏時間を採用していた。だから国際的なニュースには発生時刻に現地時間に「日本夏時間」を添えて報道することがあった。このニュースもそうだった。
 米英両政府が対日講和条約の最終草案を…続き (2012/6/2 7:02)

日経の国際化が始まった日 サンフランシスコへ(41)

講和会議に特派された日本経済新聞社の大軒順三・編集局次長

 1951年8月の日本を再現する作業を進めてきているが、いま振り返って驚くのは、サンフランシスコでの講和に対する関心の高さである。占領から独立に切り替わるのだから、講和は外交ニュースではあっても、それ…続き (2012/5/26 7:01)

中国が周恩来外相声明でソ連に同調 サンフランシスコへ(40)

周恩来=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 ソ連の会議参加声明にほぼ時機を合わせる形で1951年8月15日、中国が周恩来外相の名前で対日講和に関する長文の声明を発表した。実際に日本に伝わったのは16日午前2時の北京放送によってだった。
 全文を…続き (2012/5/19 7:00)

ソ連の講和会議出席に激しい反応 サンフランシスコへ(39)

皇居に向かい合って立つ第一生命ビル。連合軍総司令部が置かれていた

 グロムイコのサンフランシスコ行きのニュースにワシントンは激しく反応した。サンフランシスコ講和会議は、名前とは逆に、形を変えた米ソ戦争だった。1951年8月13、14日に起きた出来事から、それがわかる…続き (2012/5/12 7:01)

終戦6年後の8.15 サンフランシスコへ(38)

 戦後日本にとって8月15日は特別の日である。1951年8月15日もそうだった。
 戦争が終わってからの6年間は、当時の日本人にとって長かったのか、短かったのか。ともあれ、サンフランシスコでの対日講和条…続き (2012/5/5 7:00)

追放解除にざわめく日本 サンフランシスコへ(37)

右端が増田甲子七=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年8月の公職追放解除は、自由党、民主党にも党内政局の火種を提供した。とりわけ自由党である。増田甲子七幹事長は「追放解除者の入党を歓迎する」と述べたが、党内のだれもが、建前と受け止めた。
 話を…続き (2012/4/28 7:00)

講和で分裂する社会党 サンフランシスコへ(36)

右端が河野密=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年夏の時点で対日講和条約をめぐって揺れたのは、自由党、民主党だけではない。より深刻だったのは社会党である。
 ソ連、中国も含めた全面講和を求めた社会党は、多数講和が有力となった現実を受け入れる…続き (2012/4/21 7:00)

「武装平和の道を」と叫ぶ鳩山 サンフランシスコへ(35)

 この物語で以前触れたように、鳩山一郎は、脳いっ血で倒れていた。追放解除は鳩山に元気を取り戻させたようにみえた。鳩山は1951年8月6日、「この際申し述べておきたいことは……」と切り出して次のように語…続き (2012/4/14 7:00)

鳩山氏ついに追放解除に サンフランシスコヘ(34)

 夏枯れという言葉が新聞界にはあるが、1951年8月の東京はニュースが多かった。9月に予定された対日講和のせいなのはいうまでもない。講和は外交問題であるだけでなく、占領時代に別れを告げ、独立を意味した…続き (2012/4/7 7:00)

池田蔵相、箱根で訪米準備の猛勉強 サンフランシスコヘ(33)

池田勇人蔵相(左)と握手するジョセフ・ドッジ氏=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年8月4日は土曜日だった。吉田茂首相の最側近である池田勇人蔵相は「静養」のため箱根仙石原に赴いた。
 箱根小涌谷の三井別荘に吉田もいることを考えての静養先の選定だったが、実際は仕事のためだった…続き (2012/3/31 7:00)

初代駐日大使は誰か サンフランシスコへ(32)

日米航空協定調印で岡崎外相(右)と握手するマーフィー駐日大使(1952年8月)=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年8月2日(米東部時間)に共同通信ワシントン支局が日米関係に関する米側の重要人事を報じた。それはサンフランシスコ講和会議への日本側全権団の顔ぶれが固まったのとほぼ同じタイミングだった。
 初代駐日大使にダレス氏、というニュースである。…続き (2012/3/24 7:00)

吉田全権団の人事内定す サンフランシスコヘ(31)

苫米地義三は全権団の一員となることが事実上決まった(1951年8月、国会で)=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年8月3日夜、吉田との会談を終えた苫米地義三民主党最高委員長は、記者団に次のように語った。
 「突然首相が箱根から来訪したことは首相の誠意が認められる。しかし民主党の既定方針に変わりはないから…続き (2012/3/17 7:00)

「宮沢日記」の迫力 サンフランシスコヘ(30)

宮沢(左)は長い間、池田勇人の片腕だった(1961年の池田首相訪米時)=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年8月3日、サンフランシスコでの講和条約署名をめぐる「挙国態勢」に向けて大きな動きがふたつあった。ひとつは外務省が同日、対日講和条約草案の解説を発表したことである。もうひとつは吉田茂首相が同日夜、民主党の苫米地義三最高委員長を訪ねて会談したことである。…続き (2012/3/10 7:02)

娘、和子の一言で折れた吉田 サンフランシスコヘ(29)

吉田茂と麻生和子=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年7月の日本にとって講和条約は戦争の終結だけでなく、経済の自立に向けた一歩でもあった。講和後をにらみ、漁業や航空などに関する話し合いも進んでいた。…続き (2012/3/3 7:00)

米は超党派で対日講和 サンフランシスコへ(28)

 サンフランシスコへ向けたワシントンの動きも慌ただしくなってきた。トルーマン米大統領は1951年7月20日、サンフランシスコで9月4日に開く対日講和会議の米側代表の顔ぶれを発表した。…続き (2012/2/25 7:00)

特需の終わり心配した日本 サンフランシスコへ(27)

 1951年7月16日、日本の新聞が「休戦会議」と呼ぶようになっていた朝鮮の前線での交渉は、第4回会議を終えた。一応の軌道に乗ったと受け止められた。
 現地からのAPの報道によれば、議題をめぐる合意に向…続き (2012/2/18 7:00)

日米安保につきまとう「瓶のふた」論 サンフランシスコへ(26)

 日本にとって快くないショークロス声明がロンドンから発信されたのとほぼ同じころ、つまり1951年7月12日ワシントン発で、米、豪州、ニュージーランド3国が太平洋安全保障条約に仮署名したとのニュースが入…続き (2012/2/11 7:34)

大英帝国の焦りと日本の困惑 サンフランシスコへ(25)

 ダレスが走り回ってまとめた対日講和条約草案に対し、まず不満の声をあげたのは英国だった。英国のショークロス商相は1951年7月12日夜、下院で声明を発表し、英国は講和条約締結後の日本に「最恵国」権(ラ…続き (2012/2/4 7:02)

「対日講和条約は仲直り条約」とダレス サンフランシスコへ(24)

 対日講和条約改訂草案の公表にあたり、とりまとめ役だったダレスは、1951年7月11日、ワシントンで声明を発表した。
 ダレスはそこで、自らが走り回ってまとめた条約案を「仲直り条約」と呼んだ。「将来の日…続き (2012/1/28 11:27)

講和条約案、杞憂に終わった経済制限 サンフランシスコへ(23)

北方領土の国後島市街地。老朽化した建物が多いが、色鮮やかな目新しい建物もある(2010年5月)

 1951年7月12日、日本の外務省は、米政府が関係国に送付した対日講和条約案を総司令部(GHQ)経由で正式に受け取ったことを明らかにし、内容を公表した。
 第14条2項の一部その他に2カ所の「注」を除…続き (2012/1/21 7:32)

「事件」だった朝鮮戦争 サンフランシスコへ(22)

 トルーマン米大統領がソ連にメッセージを送ったのは、当然ながら計算の結果だった。米側が停戦交渉を軍事的問題だけを話し合う場と考えていたのに対し、ソ連はそれに同意する姿勢を表面ではとりつつも、政治問題も…続き (2012/1/14 7:00)

緊迫の停戦予備会談 サンフランシスコへ(21)

 交渉をめぐる報道には、いつの時代も変わらぬ特徴がある。前触れ報道が大きく、実際の交渉が始まると、そうはいかなくなる。直ちには合意が成立しないから、交渉者の口は硬くなり、ニュースは出なくなり、報道は地…続き (2012/1/7 7:00)

砲火のなかで停戦交渉 サンフランシスコへ(20)

 第3部20回が配信されるきょうは、2011年最後の日である。ことし1月から始めたこの物語も50回となる。
 60年たった2011年、日米関係で特筆すべきは東日本大震災の被災地での米軍の「トモダチ作戦」…続き (2011/12/31 7:00)

講和会議のサンフランシスコ開催決定 サンフランシスコへ(19)

 東京開催は結局、誤報となる。サンフランシスコで1951年9月の第1週に対日講和会議の署名式をするとのニュースが駆け巡ったのは、ロンドン発の報道の2日後の7月6日だった。米国務省当局者がUPI、APな…続き (2011/12/24 7:00)

朝鮮停戦交渉めぐる駆け引き サンフランシスコへ(18)

 外交交渉は、交渉の日時や場所をめぐるところから実は始まる。いまも北朝鮮が6カ国協議で日程確定をめぐってしばしば「出席カード」を使い、米国や日本がこれを相手にしなくなって協議そのものが開催できない状態…続き (2011/12/17 7:00)

朝鮮停戦交渉に弾み サンフランシスコへ(17)

朝鮮戦争停戦会談が開かれた開城(1951年7月米軍撮影)=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年7月1日、北京放送が伝えたニュースが世界を駆け巡った。北朝鮮と中国が停戦交渉に応じると発表したのである。
 北京放送と聞いて、独特の甲高いアナウンサーの声を連想できる日本人は、50歳代以上だ…続き (2011/12/10 7:01)

ソ連が朝鮮停戦交渉を提案 サンフランシスコへ(16)

 アリソン公使の訪日は重要な意味を持った。吉田茂首相のほか、井口貞夫外務次官とも会談した。GHQ(連合国軍総司令部)と外務省、大蔵省などの局長級の協議で講和をめぐる実務的な詰めが進んだ。
 対日講和をめ…続き (2011/12/3 7:00)

鳩山倒れ、吉田は続投宣言 サンフランシスコへ(15)

池田蔵相(中央)=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 朝鮮動乱と当時呼ばれていた朝鮮戦争は、日本の戦後復興を早める結果になった。日本経済には特需をもたらした。米国の冷戦戦略は日本の再軍備を求め、このためにも講和条約による独立が急がれた。戦争責任を問われ…続き (2011/11/26 7:01)

臆測呼ぶ米国防長官の突然の訪日 サンフランシスコへ(14)

 米国の国防長官が突如、ある国を訪問することはいまでも珍しくない。イラクやアフガニスタンを大統領や国務長官、国防長官が突然訪問するニュースがしばしば流れる。ほぼ共通しているのは、そこに米軍が展開してい…続き (2011/11/19 7:01)

対日講和めぐる米英の溝埋まる サンフランシスコへ(13)

 1951年4月は、どんな時期だったか、改めて振り返ってみる。
 日本列島の目と鼻の先にある朝鮮半島では戦火が続き、日本自身は講和による独立を目指していた。だから第2次世界大戦の戦勝国である連合国の内政…続き (2011/11/12 7:01)

「中立論は侵略の容認」とダレス サンフランシスコへ(12)

 1951年4月、マッカーサーとダレスは、交互に新聞の見出しをつくった。4月24日に新聞の一面を占めたのはダレスだった。一週間の日本での日程を締めくくる形で、また東京・丸の内の日本工業倶楽部を選び、2…続き (2011/11/5 7:01)

日米暫定駐兵協定の骨格明らかに サンフランシスコへ(11)

 マッカーサーが米議会で感動的な演説をしたほぼ半日後の日本時間1951年4月20日午前11時から、ダレスは東京でいくつかの重要な会談をこなした。最初の客は、参院議長である佐藤尚武だった。第1部で紹介し…続き (2011/10/29 7:00)

日本を感動させた「老兵は死なず」演説 サンフランシスコへ(10)

 歴史に残る演説は多いようでいて少ない。
 米国人による演説で日本人にもなじみが深いのは「人民の人民による人民のための政治」で有名なリンカーンのゲティズバーグ演説、「国が諸君のために何をなしうるかを問い…続き (2011/10/22 7:00)

日経1面に載った米上院議員の死 サンフランシスコへ(9)

 米ミシガン州のグランド・ラビッズで共和党のアーサー・ヴァンデンバーグ上院議員が亡くなったのは、1951年4月18日夜だった。日米間で再軍備をめぐる協議がなされるなかでの米上院の有力議員の死である。日…続き (2011/10/15 8:12)

吉田首相、再軍備要請に軟化の兆し サンフランシスコへ(8)

行進する警察予備隊=朝日新聞社提供

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 ワシントンで発表されたトルーマンの太平洋防衛構想も、大きな反響を呼ぶニュースだった。モリソン英外相は1951年4月19日午後、下院で「太平洋条約の締結は英連邦の安全のために貢献する。条約は全太平洋地…続き (2011/10/8 12:00)

暫定協定だった旧安保条約 サンフランシスコへ(7)

銃を携えて街頭を警備する進駐軍(1951年)=毎日新聞社提供

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 東京とワシントンからの発信の紹介を続ける。日本にとって直接関係があったのは、1951年4月19日のダレスの東京での記者会見である。一方、トルーマン大統領は記者会見ではなく、ホワイトハウス声明の形で太…続き (2011/10/1 12:01)

東京・ワシントンで情報発信合戦 サンフランシスコへ(6)

 トルーマン政権が冷たい戦争を戦っていた相手であるソ連の共産党機関紙「プラウダ」がマッカーサー解職に初めて触れたのは、1951年4月18日付の紙面だった。
 「朝鮮における戦争の責任と新しい世界大戦を準…続き (2011/9/24 12:00)

故国に帰ったマッカーサー サンフランシスコへ(5)

 ダレスが東京で吉田と会談した1951年4月18日、米国からのふたつのニュースが東京に届いた。ひとつは太平洋三国協定が近く発表されるとするワシントンからの17日発ロイター電であり、もうひとつはマッカー…続き (2011/9/17 12:00)

見出しに映る「被占領国」意識 サンフランシスコへ(4)

3者会談が開かれる前日、総司令部にリッジウェー総司令官を初訪問する吉田首相=朝日新聞社提供

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 1951年4月18日、吉田茂首相とダレス特使は2回会談した。ダレス訪日は、日本の世論が親近感を持っていたマッカーサー解職の衝撃をやわらげ、対日政策が変わらないとのメッセージを伝えるためだった。だから…続き (2011/9/10 12:00)

吉田茂も大磯から上京 サンフランシスコへ(3)

 来週の木曜日つまり2011年9月8日は、サンフランシスコで対日講和条約に吉田茂首相ら全権団が署名し、吉田ひとりが日米安保条約に署名してちょうど60年の記念日である。それについては後に詳しく触れる。物…続き (2011/9/3 12:00)

ダレスとマッカーサーのすれ違い サンフランシスコへ(2)

 この物語の第1部、2部では、ダレスとマッカーサーが重要な役割を演じた。第3部でも、しばらくの間、それが続く。日本占領を担当したマッカーサー、独立のための講和条約交渉にあたったダレスは、ともに共和党員…続き (2011/8/27 12:44)

ダレス特使の再訪 サンフランシスコへ(1)

 ホワイトハウスはマッカーサー解職を発表した1951年4月11日、日本にとって重要なもうひとつの声明を発表した。ダレス特使の再来日である。第1部で述べたように、1951年1月25日から2月11日まで1…続き (2011/8/20 12:00)

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