1954年(昭和29年)12月8日、日本民主党、左右社会党が共同提出した内閣不信任案が可決必至となって吉田茂内閣はついに総辞職した。首相指名選挙で民主党の鳩山一郎が左右社会党の協力を得て自由党の緒方…続き (2011/5/15 12:03)
1953年(昭和28年)3月、吉田茂首相の「バカヤロー」発言で政局は紛糾した。自由党内の鳩山派(民主化同盟)と広川派は連合を組んで吉田内閣打倒に動いた。芦田均とは犬猿の仲の河野一郎が珍しく芦田邸を訪…続き (2011/5/1 12:03)
1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮戦争が勃発した。これに先立つ14日、吉田茂首相は国民民主党の参議院議員・林屋亀次郎を通じて芦田均に「ひそかに会いたい」と申し込んできた。芦田はこれを承諾し、国…続き (2011/4/24 12:12)
首相を退陣した芦田均に安息の日々は訪れなかった。芦田は政界引退を考えていたが、検察の捜査が自身に及ぶとの憶測が流れて心は乱れた。昭電事件には無関係という自信は揺るぎなかったが、万が一逮捕されたら断固…続き (2011/4/17 13:03)
民主党総裁・芦田均は片山中道連立内閣の副総理・外相として入閣し、吉田茂に代わって目黒の外相官邸の主になった。外相は芦田の念願のポストであった。片山内閣が発足して早々、芦田の推薦で蔵相となった民主党の…続き (2011/4/10 12:04)
1946年(昭和21年)11月、芦田均は自由党政調会長に就任した。しかし、このときすでに芦田は自由党に見切りをつけて新党結成を考えていた。芦田は鳩山一郎、三木武吉、河野一郎らと深い溝ができていたが、…続き (2011/4/3 12:07)
1946年(昭和21年)2月8日、幣原内閣の松本蒸治国務相はGHQ(連合国軍総司令部)の求めに応じて憲法改正案を提示した。この松本案は帝国憲法を微修正した微温的な内容だった。当時、政府の内外では憲法…続き (2011/3/27 13:14)
戦時中の芦田均は官憲から厳しい監視を受けていたが、同志の安藤正純らと銀座の交詢社で情報交換するなど緊密な連絡を保っていた。安藤は東京朝日新聞編集局長から政界に転じて鳩山一郎とは盟友関係にあった。芦田…続き (2011/3/6 12:08)
芦田均が辞職の意向を外務省に電報で伝え、赴任地のベルギーからシベリア鉄道経由で慌ただしく帰国したのは1932年(昭和7年)2月4日である。犬養政友会内閣はすでに同年1月21日に衆議院を解散し、総選挙…続き (2011/2/27 12:06)
「政客列伝」シリーズはこれまで、首相にはならなかったが、首相に匹敵する存在感のあった有力政治家を取り上げてきた。今回はその例外として首相経験者の芦田均(1887~1959)を取り上げる。
現行憲法の…続き (2011/2/20 12:11)