安保闘争の最中の1960年(昭和35年)6月17日、河上丈太郎はキリスト教系大学の教授・学生の安保反対請願デモを出迎えるため、同僚議員とともに衆議院議員面会所に立っていた。そこへ1人の青年が河上の背…続き (2011/1/30 12:22)
社会党は1957年(昭和32年)1月の党大会で米国、ソ連、中国に友好使節団を派遣することを決めた。社会党の非武装中立政策を実現するには米中ソ3国とそれぞれ不可侵条約を結ぶ必要があり、そのための布石の…続き (2011/1/23 12:00)
1953年(昭和28年)1月の右社党大会で委員長に再選された河上丈太郎は左右社会党の統一に全力を挙げるようになる。すでに政界復帰した時から河上は「必ず社会党統一を実現する」という強い決意を固めていた…続き (2011/1/16 12:15)
1945年(昭和20年)8月15日、河上丈太郎は東京・牛込の自宅で玉音放送を聞いた。河上は日本再建のために社会主義政党の結成を急ぎたいと考えたが、戦時中に大政翼賛会総務になった後ろめたさもあって、河…続き (2011/1/9 14:56更新)
1930年(昭和5年)の選挙で落選した河上丈太郎は6年に及ぶ苦難の生活を強いられた。同年4月、鐘紡の大阪工場と兵庫工場で大規模なストライキが始まった。大阪工場は西尾末広の総同盟が、兵庫工場は坂本孝三…続き (2010/12/26 12:39)
1923年(大正12年)、第2次山本権兵衛内閣が犬養毅逓相の強い主張を受け入れて男子普通選挙実施の方針を打ち出すと、労働組合や知識人の間に無産政党結成の動きが活発化した。大正13年6月、東京で結成さ…続き (2010/12/19 13:00)
河上丈太郎(1889~1965)は西尾末広と並ぶ右派社会党の指導者であった。ともに穏健な社会主義者だったが、個性と政治スタイルは大きく異なる。西尾はたたき上げの労働者出身で元来は慎重な性格であったが…続き (2010/12/12 12:05)