2019年8月21日(水)
トップ > 連載 > 日米外交60年の瞬間 第4部

日米外交60年の瞬間 第4部

フォローする

第4部 一覧

「講和経済」のジレンマ 帰ってきた日本(20)

東京商工会議所会頭のときの藤山愛一郎氏=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年9月8日のサンフランシスコ講和に対する日本の経済界の反応は複雑だった。占領が終わり、独立を果たし、国民的な悲願は達成された。独立とは文字通り独りで立つのであり、それは経済的には重い荷物を背…続き (2013/1/19 7:00)

吉田茂が葉巻解禁したわけ 帰ってきた日本(19)

葉巻をくゆらす吉田茂首相=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 講和条約と日米安全保障条約への署名によって、サンフランシスコでの吉田茂首相の仕事は終わった。1951年9月9日、吉田は外務省の随員たちと上機嫌で昼食をとり、断っていた葉巻をくゆらせた(高坂正堯「宰相…続き (2013/1/12 7:00)

安保の核心は行政協定に 帰ってきた日本(18)

日米行政協定調印で握手するラスク特使(左)と岡崎勝男=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 安保条約に吉田茂首席全権が実際に署名したことを伝える記事は1951年9月10日付日経1面にある。だが扱いは、予告原稿よりもさらに地味だった。1面トップではなくワキ扱い。タテ見出しではなく、ヨコ4段であり、「日米…続き (2013/1/5 7:00)

吉田ひとりで安保条約に署名 帰ってきた日本(17)

安保条約に署名する吉田茂首席全権=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年9月8日は、吉田茂首席全権にとって忙しい日だった。午前中にサンフランシスコのオペラハウスで条約に署名し、午後5時(日本時間9日午前9時)からサンフランシスコの第6軍司令部プレシディオ(将校…続き (2012/12/29 7:00)

講和条約に49カ国が署名 条約全文を別掲 帰ってきた日本(16)

講和条約に署名する吉田茂首席全権。囲むのは左から徳川宗敬、星島二郎、苫米地義三、池田勇人=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 日本のいわゆる戦後史を二分する瞬間があるとすれば、1951年9月8日午前11時55分(米太平洋時間。日本時間9日午前3時55分)がそれだろう。サンフランシスコ講和会議で対日講和条約に49カ国が署名し…続き (2012/12/22 7:00)

領土問題に触れた吉田演説 帰ってきた日本(15)

日本復帰が決まり、祝いの横断幕が張られた奄美大島の名瀬銀座通り=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月7日夜(米太平洋時間)の吉田茂首席全権による演説は、奄美大島、琉球諸島、小笠原群島、そして北方領土問題にも触れた。竹島、尖閣諸島には直接触れていない。ここでは吉田演説に沿って領土問題を…続き (2012/12/15 7:00)

高い声で「欣然受諾」と吉田 帰ってきた日本(14)

講和会議で演説する吉田茂・首席全権=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 きょうは2012年12月8日である。71年前の1941年のこの朝、日本は真珠湾攻撃によって米英を中心とする連合国との戦争に入った。偶然だが、この物語できょう扱うのは、日本の敗戦に終わった戦争の講和を…続き (2012/12/8 7:00)

経済めぐり土壇場の交渉 帰ってきた日本(13)

 1951年9月6日、サンフランシスコ講和会議に特派されていた日経の大軒順三記者は「後半のヤマ経済問題」と見出しをつけた原稿を送った。ソ連側の主張が多数を得られない見通しが明らかになったためだ。
 同じ…続き (2012/12/1 7:00)

セイロン全権が名演説 帰ってきた日本(12)

 1951年9月6日のサンフランシスコ・オペラハウスの会議場に話を戻す。午前10時9分(日本時間7日午前3時9分)から3日目の会議が始まった。
 ソ連のグロムイコ首席全権が議事妨害を繰り返すのではないか…続き (2012/11/24 7:00)

グロムイコ暗殺計画が発覚 帰ってきた日本(11)

講和会議場の前で「グロムイコ帰れ」のプラカードを持つ白系ロシア人も=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年9月の日本を取り巻く客観情勢は複雑だった。サンフランシスコからもたらされる講和、独立のニュースには明るさがあったが、ほかならぬ東京発のニュースにはそれを打ち消す趣があった。
…続き (2012/11/17 7:00)

快刀乱麻の大軒原稿 帰ってきた日本(10)

 サンフランシスコからの報道を通じて知って社説を書く論説委員たちと違い、現場にいる大軒順三記者の書いた記事は、快刀乱麻の切れ味を感じさせた。
 やや長くなるが、1951年9月6日付日経の1面トップを飾っ…続き (2012/11/10 7:00)

ソ連提案に戸惑う日経社説 帰ってきた日本(9)

 1951年9月5日のサンフランシスコ・オペラハウスでのソ連のグロムイコ代表の演説は、日本にはある種の戸惑いを与えた。
 講和条約にソ連と中国が入らないのはやむを得ないとする多数講和、中ソが入らねばおかしいと考える全面講和の…続き (2012/11/3 7:00)

ソ連が13項目の条約修正提案 帰ってきた日本(8)

 1951年9月5日午後のサンフランシスコ・オペラハウス――。ダレス米、ヤンガー英代表が対日講和条約草案の説明をした後、ようやく各国の一般声明演説に入った。だがソ連のグロムイコの出番までには、メキシコ…続き (2012/10/27 7:00)

グロムイコに先制したダレス 帰ってきた日本(7)

講和会議で演説するダレス米代表=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年9月5日午後3時9分(米太平洋時間)、サンフランシスコ講和会議2日目の午後の討議が始まった。このセッションの焦点はソ連のグロムイコ代表の演説だったが、いきなり主役登場とはならない。…続き (2012/10/20 7:00)

切り結ぶ米ソ外相 帰ってきた日本(6)

論戦を挑むグロムイコ=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 サンフランシスコ講和会議のヤマは、会議2日目にあたる1951年9月5日だった。国際社会に復帰する日本の吉田茂首席全権を「主役」とすれば、「影の主役」ともいえる人物が登壇し、予想通りのパフォーマンスを見せたからである。
 ソ連首席代表のグロムイコである。…続き (2012/10/13 7:00)

停電に財政不安が重なった日本 帰ってきた日本(5)

電力不足のため、ランプで授業する学校も=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月6日付日経社説が繰り返した「不安」は、国際情勢の不安定に起因するように読めたが、当時の日本社会にあったのは漠たる戦争の不安だけではなかった。…続き (2012/10/6 7:00)

押っ取り刀のイタリア首相 帰ってきた日本(4)

 1951年9月初めにサンフランシスコに集まった政治家たちは当然ながら、活発なロビー外交を展開した。それは記者たちに多くの取材を強いる結果になり、たくさんのニュースが発信された。…続き (2012/9/29 7:00)

マイクの前で「国民諸君!」と吉田全権 帰ってきた日本(3)

講和会議で歓談するヤンガー英全権(左)と吉田茂=毎日新聞社提供

毎日新聞社提供

 1951年9月5日午後6時30分(日本時間)、吉田茂首相(首席全権)は、サンフランシスコ会議開催に向けた日本国民へのメッセージをNHKラジオで放送した。先の新聞広告に続く国内向けの発信である。
 サン…続き (2012/9/22 7:00)

思惑交錯するレセプション 帰ってきた日本(2)

東京・芝浦の竹芝桟橋に到着したスモールニー号から下船する引き揚げ者=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年9月4日、サンフランシスコ講和会議で演説したトルーマン米大統領は、午後8時からパレスホテルで開かれた公式レセプションに姿を見せた。
 米国務省が主催したこのレセプションは、各国全権、随員、報…続き (2012/9/15 7:00)

講和会議開幕の興奮 帰ってきた日本(1)

サンフランシスコ講和会議で演説するトルーマン米大統領=朝日新聞社提供

朝日新聞社提供

 1951年9月4日午後7時14分、サンフランシスコで対日講和会議が始まった。25年後に日経社長になる大軒順三特派員は「日本と連合国間の戦争状態に終止符を打つ対日平和条約調印会議は4日サンフランシスコ…続き (2012/9/8 7:00)

日米外交60年の瞬間バックナンバー

電子版トップ連載トップ


日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報

新しい日経電子版のお知らせ

より使いやすく、よりビジュアルに!日経電子版はデザインやページ構成を全面的に見直します。まず新たなトップページをご覧いただけます。

※もとの電子版にもすぐ戻れます。