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「打ったらバンザイ」、イチローがチームを感じた瞬間
スポーツライター 丹羽政善

2010/5/3 7:00
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドにあるドン・ワカマツ監督の監督室には入って右側、監督の机から見れば正面に1枚の写真が飾られている。

それは2009年9月6日、イチローがオークランドのアスレチックス戦でメジャー通算2000本安打を達成したあとの1シーン。

監督室の1枚の写真

記録達成後、ライトの守備についたイチローに対し、一塁側ファウルグラウンドのブルペンにいる投手全員が両手を挙げて万歳する姿を、センターのバックスクリーン付近からカメラマンがとらえたものだ。

イチローは、直立不動でそれを見つめている。

打ったら"バンザイ"――。

昨季から抑え役を務めるデビッド・アーズマが「そう決めていた」と教えてくれたのは記録到達から数日後のこと。

ワカマツ監督も気に入る

そのときに、その写真の存在を伝えれば「見せてもらえるかなぁ?」。

知人から得たその写真ファイルをアーズマのメールアドレスに転送すれば、彼はいたく喜んだ。iPhoneにダウンロードした写真を、ブルペンの投手に見せて回るうちに、監督室へも足を伸ばす。すると、ワカマツ監督が誰よりも気に入ったようだ。

「それを、印刷してもらえないか」

4つ切サイズ大に引き伸ばされたそれは額に入れられる前、イチローを含めて写っている全選手のサインが添えられた。

ワカマツ監督が、その写真に魅入られた理由をこう説明する。

チームメートとの距離

「"チーム"を感じないか」

孤立気味のイチローとチームメートの距離を、どう縮めるか。昨年、WBC(ワールドベースボールクラシック)のためにイチローの合流が遅れ、さらに胃潰瘍(かいよう)で離脱すると、ワカマツ監督は大いに気をもんだという。

それは、ケン・グリフィーJr.らのおかげで杞憂(きゆう)に終わるのだが、つい先日、ブルージェイズも同じような問題を抱えていたことが話題になった。

ハラディがいなくなって…

それを明かすトロントの地元紙の記事は「(ロイ・)ハラディがいなくなって、緊張感から解き放たれた」という選手のコメントを紹介しながら、チームの変化を伝えている。

ハラディとは03年に22勝を挙げてサイ・ヤング賞を獲得して以来、毎年のように同賞の候補となる投手。06年からは4年連続で16勝以上をマークし、投球回数も先発に定着した02年以来、8年で6度も200イニング以上を投げている。

しかし、昨年のオフにブルージェイズからフィリーズへトレードされる。それは彼の契約切れに伴うもので、予算的に再契約は厳しいと考えたブルージェイズがやむなく放出したと見られていたが、その記事は、チームメートとの問題を否定していない。

孤立していた

「認めることは難しいが、ハラディは孤立していた」

 ハラディ本人は決して気難しい選手ではない。取材のときなどは両手を後ろに組んで応じるなど、丁寧な姿が記憶に残る。

ただ、彼にはあまりにも才能があった。ありすぎた。そして、チームメートとのそれは、開きすぎていた。「よって、チームメートがついていけなかった」と、その記者は選手らの証言を元に内幕を明かしている。

マリナーズでも…

それを読んで思い当たったのが、08年のマリナーズ。イチローとチームメートとの意識の差は、クラブハウス内によどみを生み、イチローの言葉を借りれば「うまくいかないからといって、他人も巻き込みたいという人がいる」という状態。価値観を共有できたのは城島健司ぐらいで、イチローはイヤホンを頼りに周囲との接触を断った。

そのとき、イチローに向けられたチームメートの冷たい視線を、一昨年の途中までチームを率いたジョン・マクラーレン元監督は「嫉妬(しっと)」と呼んでいる。

ゆがんだ感情生む

才能の差はゆがんだ感情をも生んでいた。

実は、そういう流れの中でマリナーズはグリフィーを獲得するのだが、背後にはイチローを意識した動きが感じられる。対等かそれ以上の才能を絡めてこそ、壁は取り払われるのでは――。同じく加わったマイク・スウィーニーも、かつてその肩1人で弱小ロイヤルズを背負っていた選手。才能、経験、実績を伴った彼らの言葉に、イチローも耳を傾けた。

効果は期待以上だった。イチローは昨年のシーズン後、こんな一言を漏らしている。

「価値観の共有、うれしい」

「価値観を共有できている感じがすごくうれしかった。そんなことはもう無理だと僕は思っていたので」

ほおを緩めながらの言葉ではあったが、それまでの強烈な寂寥(せきりょう)感もまた、言葉の裏にはうかがえた。

チームメートとの距離が一気に縮んだのは昨年の春のことか。

開幕間もない4月19日、クラブハウスに併設されたミニインタビュールームでカンガルーコート(裁判)が開かれた。

カンガルーコート

カンガルーコートとは、日本語に訳せば、人民裁判、模擬裁判などと堅苦しくなるが、ようは選手の遅刻や、怠慢プレー、ロッカーが汚い、ファッションがダサい……等々を告発し、有罪の場合、罰金をとるという大リーグでは古くからある選手間の遊び。語源は、カンガルーの歩みのように飛躍的であることとされ、起源はカリフォルニアのゴールドラッシュ時代までさかのぼるそうだ。

イチローも裁かれる

訴える選手は、目撃者の証言とともに、靴箱程度の小さな箱にその内容を記したメモを投じ、それがたまったところで裁判が開かれ、裁判官――マリナーズの場合は、グリフィーがそれを演じて、判決を下すという流れだ。

その1回目、イチローも例外なく裁かれた。

訴えられた内容は「個人通訳がいることと、開幕に間に合わなかったこと」。後者はともかく、前者は半ばタブーとする雰囲気があり、若い選手らはどんな顔をしたらいいか、互いに顔を見合わせたに違いない。

ただ、これまでそれを表立って指摘する人はなく、そこに風通しの悪さを感じるが、オープンになったことで、どこか皆、胸のつかえが下りたと聞く。

遊びに溶け込ませ、巧みに角が立たないようにタブーを取り払ったのは、果たしてグリフィーだった。「意図したものか?」との問いには「ただ、楽しもうとしただけさ」とほおを緩める。

その表情には、含みが感じられた。

ところで、"バンザイ"は、ジョン・ウィッテランド・ブルペンコーチの発案だそうだ。アーズマらは、一も二もなく喜んで応じた。

その思いが伝わったのだろう。そのときのことを問えばイチローは、しみじみと語った。「うれしいですよね。チームメートのああいう反応は」

彼もまた、"チーム"を実感した瞬間だったに違いない。

昨季のチームメートをイチローは「気持ちのいい連中」と形容したことがある。主力は今年も変わらず、その気持ちのいい連中に囲まれての今シーズンは、まだ始まったばかりである。


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