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金丸-小沢ラインで政局主導 「政界のドン」金丸信(6)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/9/4 12:00
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

1987年(昭和62年)10月の「ポスト中曽根」の総裁選は竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の3人の争いになった。二階堂進は推薦人を集められず、出馬を断念した。候補者が4人に達しなかったので党員による予備選挙は行われず、10月20日に国会議員による本選挙が設定されたが、話し合い調整を軸に事態は展開した。竹下派113人に竹下支持の河本派32人、さらに中曽根派81人の支持があれば過半数に達する計算となり、数の上では竹下優勢だった。

金丸信は盟友の竹下に「中曽根総理のハラは今でも竹下で変わっていないと思う。ここまで中曽根内閣を支えてきたのはだれか、総理はよく知っている。ここまできたら、信義の問題だ。これだけ数を集め、推されているのになれなければ、あんたにどこか足らんところがあるということだ。不徳のいたすところとあきらめるしかないな」と進言した。竹下は告示後、中曽根首相とサシで会談し、中曽根の裁定に委ねる意向を伝えた。

■海部政権の後ろ盾に

数の上で劣勢だった安倍と宮沢も公選を望まなかったが、中曽根の調整に白紙委任すれば竹下になる可能性が高いと見て、安倍は竹下との一本化工作に乗り出した。宮沢派は安倍派に提携協議を働きかけた。10月19日の安倍と竹下のマラソン会談は8時間以上に及んだ。安倍には世代交代の先頭を走ってきたという自負心があった。「安竹」の友情関係を頼りに「先に譲ってほしい」と執拗(しつよう)に迫ったが、竹下はのらりくらりとして言質を与えなかった。

海部首相と金丸信=毎日新聞社提供

海部首相と金丸信=毎日新聞社提供

この会談の最中に西武鉄道の堤義明から「総理は宮沢を指名する。全財産をかけてもいい」との電話が竹下派幹部の小渕恵三に入った。金丸は直ちに首相官邸に電話を入れた。「総理は誰とも話はしません」という秘書官の対応に金丸が怒鳴りつけると、折り返し中曽根から電話があった。宮沢指名について中曽根は「だれがそんなことを言っているんですか。そういう人がいたらここに連れてきて下さい。私はだれとも相談していません」と否定した。

中曽根の周辺の一部からは「安倍有利」との情報が盛んに流された。さまざまな情報が乱れ飛ぶ中で安倍・竹下会談は不調に終わり、安倍派と宮沢派の協議も暗礁に乗り上げた。根負けしたように安倍も宮沢も19日夜、中曽根首相の調整に白紙委任した。

国会議員による本選挙が設定されていた10月20日未明、中曽根は後継総裁に竹下を指名する裁定を下した。金丸の期待通りの結果だった。「裁定の直前、経世会はお通夜のようだった。安倍君に落ちると多くが思っていたようだ。私は『何だ君たちは。俺は負ける戦をしたことはない』と元気づけた。それだけに竹下という名前が出た時の喜びは大きかった。感激というのはこの瞬間のためにある言葉だ。私はすぐ祝賀会場のわきにあった公衆電話で中曽根さんにお礼を言った」と後に記している。

竹下内閣ができると金丸は役職には就かず、「俺は雇われマダムだ」と言いながら経世会会長として派閥の取りまとめに専念した。竹下内閣は消費税創設で大きな功績を残したが、リクルート事件の拡大で政権は行き詰まった。事件は中曽根、安倍、宮沢、渡辺美智雄ら有力者の周辺にも及び、竹下首相が最も信頼する青木伊平秘書が検察の取り調べを受けて自殺する事態となり、ついに退陣に追い込まれた。竹下の後継は本来、安倍晋太郎のはずだったが、安倍はリクルート事件の痛手を受けていたうえに病床に伏していた。竹下はクリーンで政治改革に取り組んでいた伊東正義に白羽の矢を立てたが、伊東は「表紙を変えるだけではダメだ」と固辞した。

入院中の小沢一郎(中央)を見舞った金丸信(左)と竹下登(右)=毎日新聞社提供

入院中の小沢一郎(中央)を見舞った金丸信(左)と竹下登(右)=毎日新聞社提供

竹下は病床の安倍と相談し、後継に中曽根派幹部の宇野宗佑外相を選び出した。この時、金丸は竹下から相談を受けていなかった。金丸は福田暫定政権を考慮していたが、安倍が福田政権を望まなかった。この一件があってこれまで二人三脚でやってきた金丸・竹下の関係にすき間風が吹いた。金丸は「宇野が後継者だと知ったのは自民党で俺は10番目だよ」とぼやいた。竹下が選んだ宇野政権は発足早々、女性スキャンダルに見舞われ、消費税への反発、リクルート事件への批判が重なって1989年(平成元年)7月の参議院選挙で惨敗し、わずか3カ月で退陣に追い込まれた。

後継選びの主導権を握ったのは最大派閥・経世会(竹下派)の会長・金丸である。金丸はリクルート事件と無関係だった。竹下は宇野政権の失敗で発言権を失っていた。金丸の意向を受けて小沢一郎が加藤紘一(宮沢派)、山崎拓(渡辺派)、三塚博、加藤六月(安倍派)らと調整し、急浮上したのが河本派の海部俊樹である。当初は幹事長として参議院選挙の指揮をとった竹下派の橋本龍太郎が人気もあり有力視されたが、平成元年7月26日、金丸邸に竹下派幹部が集まり、派内から候補者は出さず、海部俊樹を推す方針を決定した。海部はもともと竹下に近かったので、竹下にも異論はなかった。

■金日成と会談、「戦後の償い」で波紋

海部内閣で小沢が金丸の強い推薦で幹事長に就任した。47歳の異例の若さだった。竹下は「まだ若い」と反対したとされる。海部政権を牛耳ったのは金丸―小沢ラインである。「土井ブーム」が吹き荒れ、参議院は与野党逆転状態だったが、小沢は金丸の支援を受けて公明、民社両党と連携する自公民路線を推進した。そして1990年(平成2年)1月、衆議院解散に打って出て「土井ブーム」に沸く社会党を抑えきって自民党は過半数を大幅に上回る勝利を収めた。これによって自民党はリクルート事件以来の危機を脱して、政権維持に成功した。

金日成(中央)と会談する金丸信(左)。右は田辺社会党委員長=毎日新聞社提供

金日成(中央)と会談する金丸信(左)。右は田辺社会党委員長=毎日新聞社提供

このころから金丸は「政界のドン」「政界の最高実力者」と呼ばれるようになった。小沢が東京都知事選の失敗で幹事長を辞任すると後任には竹下派の小渕が就任した。小沢は心臓病で緊急入院したが、病が癒えると金丸は小沢を竹下派の会長代行に抜てきした。

金丸は平成2年9月、自民党代表団を率いて田辺誠社会党委員長とともに北朝鮮を訪問し、金日成主席と会談した。保養地・妙香山で金日成と2人だけで飲み明かし、意気投合した。金丸訪朝は抑留中の第18富士山丸の紅粉勇船長の釈放などの成果を上げたが、自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同声明に国交交渉開始とともに「戦後45年の償い」が明記され、内外に大きな波紋を呼んだ。国内では右翼勢力が「土下座外交」と金丸を激しく攻撃した。平成4年3月には栃木県足利市の演説会場で金丸を狙った銃撃事件が起きた。

韓国政府、米国政府も金丸訪朝に強い危惧の念を示した。金丸は釈明に追われた。平成2年暮れ、日韓議連会長の竹下登のお膳立てで金丸は韓国を訪問し、盧泰愚大統領と会談して「韓国政府の立場を損なうものではない」などと釈明した。平成3年4月には訪米してブッシュ大統領と会い、日米同盟優先の姿勢に変わりがないことを確認した。訪朝で金丸は苦境に立たされたが、盧泰愚、ブッシュ両大統領との相次ぐ会談は金丸が「日本の最高実力者」であることを内外に印象づける結果にもなった。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 金丸信著「私の履歴書 立ち技寝技」(88年日本経済新聞社)
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)
 竹下登著「証言 保守政権」(91年読売新聞社)

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