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安保衆院通過へのドラマ 講和発効まで(29)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2013/8/10 7:00
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

1951年10月25日は、実は日米安全保障関係の歴史のなかで重要な日である。サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の衆院通過の見通しがついた日だからだ。

三木武夫の登場

日本国憲法は予算と条約について次のように衆院の優越を認めている。

第六十条 1 予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
2 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
第六十一条  条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。

安保条約賛成の段取りを整えた三木武夫・民主党幹事長(当時、後の首相)。「バルカン政治家」の異名も持っていた

安保条約賛成の段取りを整えた三木武夫・民主党幹事長(当時、後の首相)。「バルカン政治家」の異名も持っていた

したがって衆院通過は条約が事実上、国会で承認されることを意味した。条約のうち、サンフランシスコ講和条約は、民主党はもちろん、社会党右派も賛成しているわけだから、国会の承認を得るのが難しかったわけではない。問題は安保条約だった。

民主党は安保条約の実質的な中身となる日米行政協定の内容がはっきりしないとして継続審議も辞さずとの姿勢だった。継続審議は吉田には受け入れがたい。そこで吉田は三木武夫幹事長ら民主党首脳と会談し、衆院通過への段取りを整えた。

衆院両条約特別委員会で三木の質問に答え、吉田が行政協定をめぐる政府の考え方を説明し、民主党はそれを評価して、安保条約に賛成する。それが段取りだった。

三木はこの物語で初登場ではない。が、後に首相になるにもかかわらず、どんな人物か紹介していないので、簡単に触れておこう。

1951年
  12月24日
吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
   1月18日
韓国、李承晩ラインを設定
   2月15日第1次日韓正式会談始まる
   2月28日日米行政協定に署名
   4月28日対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
   1月20日
アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
   10月2日池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
  12月24日奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

三木(1907~88年)は徳島県出身の政治家であり、51年にわたって衆院議員をつとめ、「議会の子」と呼ばれた。衆院正面玄関に胸像がある。

66年12月から68年10月まで佐藤内閣の外相、さらに74年12月から76年12月には首相をつとめ、日米関係にも顔を出す。保守左派の立場であり、日米関係にもその角度からかかわった。

だから吉田から行政協定に関する答弁を得て民主党が安保条約に賛成するという三木の動きは、いかにも三木らしい登場の仕方である。もっとも政治家になる前、三木には米国留学の経験があるから、日米関係への縁は深いともいえる。

さて吉田の答弁は、日経によれば、要旨次のようなものだった。便宜的に番号をふった。

「米軍出兵は協議の上で」と吉田答弁

複雑だった社会党の党内事情。衆院条約特別委で賛成した右派の西村栄一(後の民社党委員長)

複雑だった社会党の党内事情。衆院条約特別委で賛成した右派の西村栄一(後の民社党委員長)

1 駐留米軍出動の判定=いかなる場合に米軍が国外に出動するかは実際の状況にもよるが、日米間で協議の結果、行われる。また共産勢力に限らず、日本の治安が外国の干渉、教唆によって乱される危険が生じた場合には、原則として日本は自力で治安確保にあたるべきだが、警察力などの及ばない重大事態が発生した場合初めて考慮されるべきものである。

2 経費の分担=もともと日本は自らの安全のために米軍の駐留を希望しているのだから、日本としては国力に相応するだけの負担は、日本国民の名誉というか自負心からしても分担すべきであると思う。しかし費用分担についても話し合いはそこまでいっていない。

反対に回った左派の勝間田清一(後の社会党委員長)。社会党は分裂状態に

反対に回った左派の勝間田清一(後の社会党委員長)。社会党は分裂状態に

3 基地設定の限度=基地設定は日本人との無用の摩擦を避けるため都市部から離すのがよくはないかとの意見もあるが、基地設定については今日具体的には毛頭考えていない。但し一定地域について一定の期間を限って相手国にその管轄権を委託するのが基地設定であるから、その意味では米軍は必要な建物と土地を使用する間、それを管理することになろう。

これだけ読むと、事務的な答弁のようにみえるが、実際の吉田答弁はそうではなかった。「決まっていないから決まっていない」「仮定の問題にはお答えしない」など相変わらずの高姿勢答弁だった。

「出兵は協議の上で」と日経は見出しをつけた。60年の安保改定で導入される「事前協議」を連想させる答弁であり、その後も69年の佐藤・ニクソン共同声明の韓国条項、さらに周辺事態法などにつながる議論の芽生えがここにある。

吉田答弁は簡単にできあがったものではない。外務省条約局長だった西村熊雄の回想によれば、事務当局が岡崎勝男官房長官に原案を提出し、岡崎が総司令部(GHQ)外交局のシーボルト局長と協議した結果とある。吉田の高飛車答弁にもかかわらず、民主党が賛成したのは、それなりの党内事情があったのだろう。

社会党は分裂状態に

社会党の党内事情はもっと複雑だった。

条約特別委は吉田と三木の質疑の後、いったん休憩し、午後3時55分に再開、討論に入った。自民党、民主党などの議員が両条約に賛成し、社会党の西村栄一が講和条約賛成、安保条約反対、共産党、労農党の議員が両条約に反対した。

採決の結果、多数で可決し、午後5時40分に散会するが、採決では講和条約に関する社会党議員の賛否が分かれた。右派の西村、松岡駒吉、水谷長三郎は賛成し、左派の猪俣浩三、勝間田清一は反対した。

社会党は分裂状態に陥っていた。


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