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吉田内閣打倒で三木武吉と連携 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(6)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2012/4/8 7:00
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日本経済新聞 電子版

自由党単独少数の第5次吉田茂内閣の重要課題は米国との相互防衛援助協定(MSA協定)問題であった。日本の防衛力強化と引き換えに米国の経済援助を引き出す構想で、財界は一致してMSA協定の締結を強く求めた。吉田内閣は少数内閣であり、野党の改進党の協力がなければ、実現できない課題であった。再軍備に消極的で防衛力漸増方針の吉田内閣と憲法改正を前提とした再軍備を主張する改進党との開きは大きいと見られた。自由党の池田勇人政調会長は改進党の大麻唯男を通じて重光葵総裁に接触を求めてきた。

反吉田の救国新党構想を推進

国会収拾を話し合う(左から)松村改進、佐藤自由、河野日自幹事長、和田左社、浅沼右社書記長

国会収拾を話し合う(左から)松村改進、佐藤自由、河野日自幹事長、和田左社、浅沼右社書記長

池田―大麻のパイプを通じた非公式折衝の結果、重光総裁は憲法を改正せず、保安隊を改組して自衛隊を創設し、長期防衛計画を策定することで自由党と妥協する決断をした。昭和28年9月27日、吉田首相は鎌倉の重光邸を訪問して両党党首会談が実現した。吉田はこの会談で次期首相には重光もあり得ることを示唆して重光の野心をくすぐった。

吉田・重光会談を改進党幹事長の松村謙三は事前に知らされていなかった。芦田均や三木武夫も知らなかった。温厚な松村も内心穏やかでなかったが、党内的には事前に知らされていたように振る舞い、党内の了解工作に奔走した。重光の態度に不満であったが、重光を総裁に擁立した責任者は松村であり、どんなことがあっても幹事長として重光を支えることに全力を尽くした。

大麻と松村は旧民政党で町田忠治の側近として政治行動を共にしてきた盟友である。戦時中、東条内閣の閣僚だった大麻に対して三木派や北村派の反発が強いため、大麻は表に立たず、水面下での自由党との折衝や、松村が苦手だった資金集めを担っていた。機を見るに敏な策士型の大麻と温厚な調整型の松村の関係は微妙だったが、役割分担の面があったとみることもできる。

大麻は自由党と改進党の提携を通じて吉田から重光への政権禅譲をめざしていたが、吉田首相は鳩山一郎に対しても政権禅譲をちらつかせて自由党復党を働きかけていた。吉田の意向を受けて安藤正純国務相や大野伴睦国務相が説得に動き、鳩山は同年11月に鳩山派の大半を率いて自由党に復党した。この経緯を見て重光は吉田と次第に距離を置くようになった。

1954年(昭和29年)に入ると保全経済会事件、続いて造船疑獄が表面化し、吉田内閣は動揺した。局面打開のため、緒方竹虎副総理は3月28日「政局の安定は現下爛(らん)頭の急務である」として改進党に両党解党、新党結成、総裁公選を前提とする保守合同を呼びかけた。これを受けて佐藤自由党幹事長は松村改進党幹事長に保守合同に向けた協議を申し入れた。

1953年(昭和28年)9月27日
MSA協定問題で吉田・重光会談
1954年(昭和29年)3月28日
佐藤自由党幹事長、松村改進党幹事長に保守合同申し入れ
同年9月18日
軽井沢で鳩山一郎と会談
同年9月19日
鳩山・重光会談に三木武吉、岸信介、石橋湛山とともに同席
同年11月24日
日本民主党結成に参加、政調会長に
1955年(昭和30年)3月19日
第2次鳩山内閣の文相に
同年11月15日
保守合同に反対も自由民主党結成に参加

造船疑獄で検察当局は4月20日、佐藤栄作自由党幹事長の逮捕許諾請求を決定した。吉田首相、緒方副総理に説得されて犬養健法相は指揮権を発動して佐藤逮捕を阻止した。指揮権発動に対する世論の批判が高まり、吉田政権はますます窮地に陥った。第19通常国会はMSA関連4協定、自衛隊法・防衛庁設置法の防衛2法案、教育の政治的中立確保法などの教育2法案、警察法改正案などの重要法案が山積していた。

佐藤自由党幹事長は松村幹事長にしばしば会談を求め、国会乗り切りへの協力と保守合同の協議に応じるよう要請した。自由党は改進党が求めた予算増額修正に応じ、改進党は前年の吉田・重光会談を踏まえて防衛問題に限定して自由党に協力した。その結果、MSA協定と防衛2法がまず成立した。しかし、教育2法と警察法については左右社会党が強く反対し、会期延長をめぐって空前の乱闘騒ぎになった。松村幹事長は自由党と左右社会党の間に入って国会の正常化に努め、最終的には教育2法と改正警察法も成立した。

改進党は5月15日、保守合同問題について吉田退陣を前提として自由党との協議に入る方針を決定した。自由党、改進党、日本自由党(三木武吉、河野一郎ら自由党に復帰しなかった鳩山残党)の3党は5月28日に新党交渉委員会を設置して協議を開始し、綱領、政策などでは大筋合意に達した。しかし、総裁問題をめぐり吉田退陣を求める改進党、日自党と総裁公選を主張する自由党の対立が解けず、6月23日には協議が打ち切られた。

3党協議が打ち切られた後も、自由党の岸信介、石橋湛山、改進党の芦田均が中心となって7月3日に新党結成準備会が結成され、有志による保守合同運動が続いた。岸、石橋、芦田の3人は緒方副総理と通じていたが、この動きを逆手にとって反吉田の鳩山新党作りに動いたのが三木武吉であった。三木は松村改進党幹事長と緊密な連絡をとり、鳩山派と改進党の合同をめざした。

改進党は世論が造船疑獄で反吉田に大きく傾いたことを踏まえ、吉田内閣打倒、反吉田勢力の結集をめざす救国新党構想に踏み切った。その中心となったのが松村幹事長である。三木武夫や北村徳太郎の一派も松村を支持した。

松村と三木武吉は戦前、民政党に属していたが、関係は必ずしも良好ではなかった。近衛新体制運動に呼応して永井柳太郎、桜内幸雄らが脱党した際、三木も一緒に民政党を脱党している。この時のスローガン「バスに乗り遅れるな」は三木の発案ではないかと松村は記している。三木が報知新聞社長になり、町田忠治や松村の了解なしに報知を読売新聞の正力松太郎に売り飛ばしたことにも強い不信感を抱いていた。

戦後、松村は頼母木桂吉の十七回忌で三木と久しぶりに会い、骨と皮ばかりにやせ細った姿を見て驚いた。戦前の精悍で憎々しいまでの三木の風貌とは一変していた。松村が「顔色が悪いようだが」と声をかけると三木は「胃潰瘍で血を吐き続けてきた。胃がんになるかもしれん」と力なく答えた。このとき松村は「三木はそう長くはないな」と感じた。

その衰弱した三木が最後の気力を振り絞って吉田内閣打倒に奔走する姿を見て松村も心が動いた。重光総裁のまま改進党単独で吉田内閣を倒すのは不可能である。松村と大麻が重光総裁を説得した結果、重光は新党の総裁を鳩山に譲り「自分は政界の一兵卒になって働くつもりだ」と決断した。松村幹事長は三木と連絡をとり、9月18日、軽井沢の別荘に鳩山一郎を訪ねて会談し、重光の決断を伝え、早急に鳩山・重光会談を開くよう求めた。

民主党結成、第2次鳩山内閣文相に

鳩山一郎(左)と会談する松村改進党幹事長=毎日新聞社提供

鳩山一郎(左)と会談する松村改進党幹事長=毎日新聞社提供

鳩山は大いに喜び、松村の手を握って感謝を意を表し、薫子夫人を伴って軽井沢の「夕霧」の牛鍋料理で松村をもてなした。翌日の9月19日、音羽の鳩山邸で鳩山・重光会談が実現した。介添え役として三木と松村が同席し、新党結成準備会の岸と石橋も立ち会った。重光はこの会談で「鳩山君の下で自分は一兵卒になって政局の安定のため奮闘する」と表明した。6者会談は新党、新政策、新指導者の3原則で一致し、新党結成準備会に改進党、自由党鳩山派、日自党が合流する方向が固まった。緒方副総理と連絡をとっていた岸も三木から新党の幹事長を確約されて鳩山新党合流に傾いた。

この形勢を見て池田自由党幹事長は自由党丸ごとの新党なだれ込みを策したが、新党結成準備会は吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないとの方針を決定した。自由党内は吉田政権維持をめざす池田と、吉田棚上げも辞さない緒方が対立し、意思統一が困難だった。新党結成準備会は11月1日、新党の党首につながる準備会委員長に鳩山を決定した。これに反発した池田自由党幹事長は岸と石橋を除名した。新党結成準備会は11月15日、新党創立委員会に衣替えし、11月24日に日本民主党が結成された。衆議院議員121名が参加した。

鳩山総裁、重光副総裁、岸幹事長、三木総務会長、松村政調会長の布陣である。芦田、大麻、石橋が最高委員になった。吉田内閣は野党が提出した内閣不信任案に抗しきれずに退陣に追い込まれ、左右社会党の協力を得て昭和29年12月10日に鳩山民主党内閣が発足した。旧改進党から重光が副総理・外相、三木武夫が運輸相、大麻が国家公安委員長となり、鶴見祐輔、千葉三郎、竹山祐太郎らも入閣した。

1955年(昭和30年)1月、鳩山内閣は左右社会党との約束に従って衆議院を解散した。この選挙に松村の地元・富山県第2区に高岡中学の後輩で読売新聞社長の正力松太郎が無所属で出馬して松村を驚かせた。昭和27年の総選挙に出馬した小松製作所社長の河合良成は一期だけで政界を退いたが、新たなライバルの出現に松村陣営は緊張した。

読売新聞を朝日、毎日と並ぶ大新聞に育て上げ、プロ野球や民間テレビ放送の事業も軌道に乗せた正力は朝日出身の緒方にライバル心を抱き、親しい三木武吉を頼りに「ポスト鳩山」を狙う野心を秘めて政界に乗り出した。豊富な資金力を背景に活発な運動を展開したが、松村陣営は逆に引き締まり、正力に大差をつけてトップ当選を飾った。第3位で当選した正力は同年7月に民主党入りした。

民主党首脳会議。右から鳩山首相、岸幹事長、松村政調会長、三木総務会長=毎日新聞社提供

民主党首脳会議。右から鳩山首相、岸幹事長、松村政調会長、三木総務会長=毎日新聞社提供

民主党は「鳩山ブーム」に乗って大幅に議席を伸ばし、185議席を獲得したが、単独過半数には及ばなかった。議長選挙では民主党の三木武吉が自由党の益谷秀次に敗れる波乱が起きた。選挙後の第2次鳩山内閣で松村は文相として入閣した。松村の入閣を強く押したのは三木武吉だった。松村は鳩山内閣実現の功労者であり、三木には正力出馬の負い目もあった。

松村は文相になると秘書官に朝日新聞の政治記者だった田川誠一を起用した。田川は政治記者として改進党を担当し、松村の人柄に惚れ込んでいた。河野一郎の甥である田川は松村の秘書を経て1960年(昭和35年)に代議士になると河野派に属しながら、松村の側近として政治行動をともにした。松村と河野の関係が良好だったのも田川の存在に負うところが大きかった。

■保守合同に最後まで反対

三木総務会長は政局安定のため、自由党に保守合同を働きかけた。自由党の大野伴睦総務会長がこれに呼応し、緒方総裁も前向きな意向を示した。民主党内では岸幹事長と河野農相が三木の保守合同を強く支持した。これに対して松村文相、三木運輸相ら旧改進党系は保守2党論の立場から保守合同に強硬に反対した。三木は松村を説得しようと鷺宮の松村邸を訪れた。松村邸は車付から玄関まで100メートルほどの距離がある。三木はふらふらとした足取りで息切れし、松村家のお手伝いの女性に助けをかりてようやく座敷にあがる有り様だった。

松村はあわてて医者を呼ぼうとしたが、応急処置して富山の薬を三木に飲ませた。この薬が効いて三木は元気を取り戻し「この薬をおれによこせ」と言って薬を懐にしまい込んだ。三木は政局安定論の立場から保守合同に同意するよう必死に松村を口説いたが、松村は保守2党論を譲らなかった。保守合同は総裁問題で難航し、自由党内でも旧吉田派が強く反対した。10月13日の左右社会党の統一が大きな刺激となり、反対論は押し切られて11月15日に民主、自由両党が合同して自由民主党が結成された。松村ら旧改進党系も全員参加した。

自民党結成に伴い、11月22日に第3次鳩山内閣が発足した。旧改進党系の閣僚ポストは3に減らされ、重光留任が決まって新人1人が入閣し、現職閣僚1人が留任することになった。松村は文相を退き、後任に清瀬一郎が入閣した。松村は三木運輸相の留任を推薦したが、大麻が国家公安委員長のポストに強くこだわったため、三木武夫も閣外に退いた。

この人事をきっかけに松村と大麻との関係に距離ができ、逆に三木武夫はますます松村に接近した。松村は文相在任中に自治体の教育委員会を公選制から任命制にする改正案を取りまとめた。この法案が成立したのは第3次鳩山内閣になってからである。三木武吉は松村を衆議院議長に擁立しようと試みたが、旧自由党系が益谷秀次議長の留任を譲らなかったため、松村議長構想は実現しなかった。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 松村謙三著「三代回顧録」(64年東洋経済新報社)
 松村正直編「花好月圓(松村謙三遺文抄)」(77年青林書院新社)
 田川誠一著「松村謙三と中国」(72年読売新聞社)
 木村時夫著「松村謙三(伝記編上下)」(99年桜田会)
 大麻唯男伝記研究会編「大麻唯男(伝記編)」(96年桜田会)

※1枚目の写真は「松村謙三(伝記編)」より


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