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早稲田・慶応創設2人の旧居 佐賀市、大分・中津市

2010/11/13 7:00
ニュースソース
日本経済新聞 夕刊

慶応義塾大学の福沢諭吉と早稲田大学の大隈重信。2人は九州で幼年期から青年期を過ごした。ともに幼いとき父親を亡くし、母の愛に包まれて勉学に励んだ。2人の偉人のふるさと、大分県中津市と佐賀市にある旧居を訪ねた。

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記念館への入り口でもある福沢諭吉の旧宅

記念館への入り口でもある福沢諭吉の旧宅

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」。JR中津駅を出ると福沢の立像が目に飛び込む。「学問のすゝめ」の初編は当初、西洋の学問を学ぶ中津の若者のために1871年(明治4年)、書かれたものだ。

大阪の中津藩蔵屋敷で生まれた福沢は1歳で父親を亡くし、母や兄姉とともに藩地・中津に移り住む。国の指定史跡「福沢諭吉旧居」は長崎に蘭学を学びに行く19歳まで暮らした平屋の家だ。

広さは約100平方メートル。苦しい生活の中で母のお順は「いつも傍らに一升か五合ほどの米をおいておき、(中略)乞食(こつじき)などが門の前に立つと、忙しい時でも施(ほどこ)しをしたという」(北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」)。施設を管理する福沢旧邸保存会の上永裕正事務局長(60)は「慈悲深い母の姿が諭吉の人格形成に大きな影響を与えたのでしょう」と話す。

隣の土蔵では福沢が自ら造ったともいわれる2階の勉強部屋(約9平方メートル)の様子を再現している。薄暗い部屋で福沢に見立てた少年の人形が窓辺に向かって座り本を読んでいる。

渓谷がみごとな市内の景勝地、耶馬渓にもゆかりの地がある。中津に帰ったとき「青の洞門」で知られる付近の土地が売りに出されていることを伝え聞き、福沢は景観保全のため土地の一部を買い取った。民間人が資金を出しあって自然環境を守るナショナルトラスト運動の先駆けだ。

旧宅に残る大隈重信の勉強部屋

旧宅に残る大隈重信の勉強部屋

佐賀藩士の長男として1838年(天保9年)に誕生した大隈重信も12歳の時に父を失った。決して裕福ではなかったが母、三井子(みいこ)もお順と同じ「困窮した人々のもとに駆けつける慈善に心を砕く人だった」(早稲田大学広報課)。佐賀市内で公開されている生家は瓦・よしぶき併用の武家屋敷で200年ほど前に建てられた。

三井子は大隈が藩校・弘道館で学ぶようになると2階に9畳ほどの勉強部屋を増築する。勉強机の前にはでっぱりのついた柱があり、勉強中に眠たくなると頭をぶつけて目を覚ますように母にしつけられた。

のちにこの部屋には弘道館の先輩、江藤新平や副島種臣が集まり日本の将来について夜を徹して語り合ったという。施設を管理する佐賀市大隈記念館の古賀雄三館長(65)は「きっと三井子は彼らに手料理を振る舞ったと思います」と語る。2階に通じる狭い階段は当時のままだ。階段を踏みしめた大隈たちの息づかいが聞こえてきそうだ(勉強部屋は一部の時期を除いて非公開)。

早大生は関東出身が7割を占め、九州・沖縄出身は5%弱にすぎない。早大では首都圏集中を見直すため、佐賀県唐津市に2010年4月に早稲田佐賀中学・高校を開校した。

九州で育った福沢と大隈は家庭環境が似たようなところがたくさんあり、出会って一気に親密になったという。先に慶応義塾を創設した福沢は大隈の学校設立を大いに助ける。明治十四年の政変(1881年)で下野した大隈は早稲田大学の前身、東京専門学校の開校式(1882年)には反政府の学校とみられないよう式典に参加しなかった。代わりに福沢が出席した。2人の友情は生涯続いた。

(大分支局長 近藤英次)

足延ばして 中津城見学
JR中津駅まではJR小倉駅から日豊本線を走る特急ソニックを使うのが便利。大分行きに乗り約30分。福沢旧居は中津駅から徒歩15分程度。地元では日本三大水城として親しまれている中津城にも立ち寄りたい。
 唐津方面には博多駅から姪浜にいく市営地下鉄を経由し筑肥線でJR唐津駅まで向かう。佐賀駅までは唐津線で。大隈記念館までは佐賀駅からタクシーで約10分。福沢旧居・記念館、大隈記念館は入場料が必要。

[日本経済新聞夕刊2010年11月10日付]


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