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田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/8/28 12:00
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

「保利元衆院議長をしのぶ会」で田中角栄と金丸信=毎日新聞社提供

「保利元衆院議長をしのぶ会」で田中角栄と金丸信=毎日新聞社提供

 ロッキード事件で起訴されて刑事被告人となり自民党を離党した田中角栄は最大派閥の田中派を率いて「ヤミ将軍」と呼ばれ、絶大な影響力を保持していた。その田中派に支えられた鈴木善幸首相は2年で退陣し、田中は後継に中曽根康弘を支持した。根回しに動いたのは鈴木派幹部の田中六助だった。しかし、田中派内には中曽根への異論がくすぶっていた。

 田中側近の後藤田正晴もこの時「なんであんなオンボロみこしを担ぐのか」と異論を唱えた。田中は「オンボロみこしだから担ぐんだ。いつでも捨てられるじゃないか」と平然としていた。金丸も当時は「中曽根嫌い」を公言していた。金丸によると三木内閣の国土庁長官時代に八ツ場ダム治水計画を立てた際、幹事長の中曽根が文句をつけたからだという。田中派の総会でも「よその派閥の助っ人をするだけでは、この派閥にいる意味がない」「請負をするのにタダということはない」などの異論が出た。

■「中曽根と差し違える覚悟」で幹事長に

 金丸が最後に立って発言した。「このシャバはキミたちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだと言うなら、この派閥を出て行くしかない。オヤジが中曽根というからには、それなりの義理があるからだろう。私もこの年でもう派閥を出るわけにはいかない。オヤジについて中曽根を応援していく。中曽根嫌いでは日本一の金丸信だ。その私が言うのだから間違いない」。金丸は持論の世代交代論を封印して田中の中曽根支持に同調した。

▼竹下派「経世会」旗揚げまでの主な出来事
1982年(昭和57年)10月
田中派の後押しで中曽根内閣が発足
1983年(昭和58年)12月
総選挙、その後に発足した第2次中曽根内閣で金丸信は自民党総務会長に就任
1984年(昭和59年)秋
総裁選で中曽根の再選が有力視されていたが、土壇場の「二階堂擁立劇」で波乱
1985年(昭和60年)1月
築地の料亭に竹下、金丸、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、梶山静六、羽田孜ら25人がひそかに集まり、竹下を中心とする「創政会」の旗揚げを決める
同年2月7日
「創政会」旗揚げ総会、40人が出席
同年2月27日
田中角栄が脳梗塞で倒れる
1987年(昭和62年)5月
田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進が総裁選に出馬表明、これに反発して竹下・金丸は田中派を出て新派閥の結成に踏み切る
同年7月
竹下派「経世会」が旗揚げ

 こうして1982年(昭和57年)10月、田中派の後押しで中曽根内閣が発足し、昭和58年12月の総選挙後の第2次中曽根内閣で金丸信は自民党総務会長に就任した。田中はロッキード裁判の一審で有罪判決を受け、自民党は総選挙で議席を大幅に減らし、新自由クラブとの連立で中曽根政権はかろうじて延命した。連立に功績のあった田中六助が幹事長になった。昭和59年秋の総裁選は中曽根の再選が有力視されていた。田中六助も金丸も中曽根再選で動いていたが、土壇場で波乱が起きた。

 「二階堂擁立劇」である。田中派の代貸し・二階堂進が公明党の竹入義勝、民社党の佐々木良作両委員長に促され、福田元首相、鈴木前首相の支持を受けて、公民両党との連立含みで総裁選に出馬する動きが表面化し、田中派内にも動揺が走った。金丸も驚いたが、病気療養中の田中六助幹事長に代わって事態沈静化の先頭に立って動いた。福田、鈴木ら長老との会談で「みんなが言っているように、中曽根が国家、国民のためにならぬとき、キミはどうするのか」と問われて金丸は「行き過ぎがあれば、中曽根と刺し違える覚悟だ」と見えを切った。田中角栄も最終的に二階堂の出馬に反対し、ようやく中曽根再選が実現した。

 中曽根首相は金丸を首相公邸に招き入れて「あなたは恐ろしい人だと思っていたが、おかげで命拾いした」と感謝の意を伝え、直後の内閣改造・党役員人事で金丸を幹事長に起用した。二階堂擁立劇は田中派に深刻な亀裂を招き、田中の支配力の低下を浮き彫りにした。田中は二階堂をなだめるために「次は二階堂だ」と公言するようになった。これにカチンときたのが金丸と竹下であった。すでに竹下のライバルの安倍晋太郎は福田派の会長代行に、宮沢喜一は鈴木派の会長代行となり、着々と派閥継承の足場を固めていた。

 「このまま田中派にいたら竹下の芽はない」。金丸も竹下もそう思い詰めた。幸いにして金丸は党を牛耳る幹事長であり、首相の中曽根も「田中支配」から脱するため世代交代の動きをひそかに支持していた。1985年(昭和60年)1月23日、築地の料亭に竹下、金丸、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、梶山静六、羽田孜ら25人がひそかに集まり、竹下を中心とする「創政会」の旗揚げを決めた。金丸はこの会合で「きょうは血盟の誓いをしたい」とあいさつし、竹下は「竹下登のすべてを燃焼し尽くし、一身を国家に捧げる覚悟をしてここに来た」と決意を明らかにした。

竹下登(左)と金丸信=毎日新聞社提供

竹下登(左)と金丸信=毎日新聞社提供

 これは田中への公然たるクーデターだった。創政会の旗揚げを知って田中は激怒し、激しい切り崩し攻勢に出た。創政会側は83人の入会署名を集めていたが、田中の猛烈な切り崩しで2月7日の旗揚げ総会に出席したのは40名だった。それでも田中の弾圧をかいくぐり40名の出席者を集めたことで竹下の政治的足場は固まった。双方の激しい攻防が続いた2月27日夜、田中角栄が脳梗塞で倒れた。田中派内の抗争は一時沈静化したが、竹下系の勢力が田中派内でじわじわ拡大する展開になった。

■「死んだふり解散」で世代交代促進

 こうして「田中支配」は終わりを告げ、中曽根首相は金丸幹事長の協力を得て竹下、安倍、宮沢のニューリーダーを要職に配して政権基盤を固めることに成功した。中曽根首相は昭和61年秋で2期4年の総裁任期が満了することになっていた。しかし、同年7月に参議院選挙があり、中曽根はレームダック状態で選挙を迎える事態を回避するため、表向きは「解散は全く考えていない」と述べつつ衆参同日選挙を画策していた。野党はダブル選挙に強く反対した。金丸幹事長は沈黙を守ったが、ひそかに衆参同日選挙に同意する考えを中曽根に伝えていた。

中曽根首相(左)と金丸幹事長=毎日新聞社提供

中曽根首相(左)と金丸幹事長=毎日新聞社提供

 ダブル選挙は中曽根の延命に手を貸すことになるが、幹事長として選挙で采配を振るい、竹下系の勢力を一気に増やしたい、何よりも世代交代の流れを決定的にしたい。そういう思いが金丸には強かった。中曽根の「死んだふり解散」と呼ばれたこの選挙は金丸らにとっては「世代交代選挙」だった。この選挙で竹下、安倍、宮沢は勢力拡大にしのぎを削り、結果的に自民党は圧勝した。竹下系勢力も飛躍的に伸びた。

 選挙後、第3次中曽根内閣が発足し、中曽根の総裁任期は特例として1年延長された。選挙圧勝の功労者である金丸は副総理・無任所相として入閣した。当初は固辞したが、中曽根から「世代交代は私一人ではやれんし、あなた一人でもやれんだろう。あなたと私が手を組んでいるところに次の時代がある」と口説かれた。金丸は後に「私は竹さんを抱いているのだから、竹さんを総理にするにはここで受けておかなければダメだなと思った」と述べている。

 竹下は蔵相から自民党幹事長となり、安倍は外相から総務会長、宮沢が蔵相となった。選挙後間もなく安倍は福田派を、宮沢は鈴木派をそれぞれ継承した。竹下も創政会をいったん解散して田中派の円満継承をめざしたが、1987年(昭和62年)5月、田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進が総裁選への出馬表明をした。これに反発して竹下・金丸は田中派を出て新派閥の結成に踏み切った。7月4日、竹下派「経世会」が旗揚げした。田中派内の中間派とみられた田村元、奥田敬和らも大挙参加してその数は113人に膨れあがった。全盛期の田中派に匹敵する数である。これによって竹下登は「ポスト中曽根」レースで一気に優位に立った。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 金丸信著「私の履歴書 立ち技寝技」(88年日本経済新聞社)
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)
 竹下登著「証言 保守政権」(91年読売新聞社)


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