辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(89) 小説 5月31日 第二章 1 お亮どの (明治十二年十月十一日) 相認(したた)めまする。 火事一件、さぞや御心配をお掛け申したことと存じ候。報知新聞にて山形監獄火災、囚人多数焼死、陸奥宗光含まれしなどと報じられたるよし、そは虚報なり。火事は事実なれど焼死者は数人。我と三浦介雄(すけお)は既に新しき獄舎に移りおり、御安心召さるべく候。委細は検閲のため述べられぬが、取り急ぎ無事の報のみにて。 扨(さて)、こ 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(89)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(88) 小説 5月30日 伊藤と山尾は、塙次郎を待ち伏せし、国賊! と罵って殺害した。しかし、二人の犯行であったことが明らかになるのは、後年(明治四年)、伊藤博文自身がそのことを認めたからである。 凶行に加担して半年も経たない翌文久三年(一八六三)五月十二日、伊藤はジャーディン・マジソン商会所有のチェルスウィック号に乗船し、英国へ向けて密出国した。密留学生は、伊藤俊輔、志道(しじ)聞多(ぶんた)(井上馨)、山尾庸三らを含 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(88)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(87) 小説 5月29日 生麦事件は、薩摩藩が攘夷派だから起きたのではなく、多分に偶発的なものだったが、これが因となって、やがて翌文久三年(一八六三)七月の薩英戦争へと発展する。 ウィリアム・ウイリスとアーネスト・サトウは、着任直後に、英国人殺害事件が起きたため、多忙を極めた。二人は初めての訪問以降、高岡の忠告に従って、常に六人の騎馬護衛兵を同行させている。彼らは公使館を警備する幕府派遣の騎馬隊で、公使館員の身辺を警護す 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(87)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(86) 小説 5月28日 ウイリスとサトウは、いとまを告げる際、ノイバラの繁みを指し、小二郎が教えた学名を口にして、是非花が見たいと言った。 「来年、五、六月にはたっぷり楽しめますよ。そうだ、株を分けてあげよう。御殿山に新しいイギリス公使館が完成したら、庭に植えるといい」 と高岡は応じた。 二人が帰って行くのと前後して、伊藤も高岡から桂小五郎への返書を受け取って帰路についた。 返書の冒頭には、桂の義弟、来原(くるはら)良蔵 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(86)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(85) 小説 5月27日 ウイリアム・ウイリスは、イギリス公使館(高輪・東禅寺)の医官としてこの年、文久二年(一八六二)五月に着任。職務に就くやいなや、松本藩士によってイギリス人水兵二名が殺害されるという事件(第二次東禅寺事件)に遭遇した。このためイギリス公使館は急遽横浜に移される。一年前の水戸浪士らによる襲撃(第一次東禅寺事件)の際にも、同じ措置が取られていた。 アーネスト・サトウは公使館通訳生として、上海領事館、北京 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(85)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(84) 小説 5月26日 馬を降りた二人の若い白人男性が、馬を左右の門柱に繋いだ。一人はとりわけ長身で、冠木(かぶき)門を潜る時、深く背を屈めなければならなかった。彼が小二郎と伊藤の姿を認めて、たどたどしい日本語で訊ねた。 「ゴメンクダサイ コチラハ タカオカセンセイノオタクデショウカ?」 「そうですが、あなた方は?」 二人はイギリス公使館の者だと名乗り、各々ウィリアム・ウイリス、アーネスト・サトウと自己紹介した。 「サトウさ 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(84)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(83) 小説 5月25日 伊藤俊輔は、萩にいた桂小五郎が義弟来原(くるはら)良蔵の自刃を知らされ、両手で顔を蔽(おお)って号泣し、周囲の者も貰い泣きしたと聞いた。その後、伊藤は来原の遺髪を萩の遺族に届け、芝の青松寺に葬ったことを伝えた。 後(のち)に伊藤は、来原が夭折(ようせつ)しなければ維新後に「真に国家の重任を負うべき政治家になっていたことは間違いない」(「恩師来原良蔵」―『伊藤公全集』三巻〔逸話〕)と述べている。 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(83)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(82) 小説 5月24日 あれ以来、伊藤俊輔が小石川を訪れることはなかった。十カ月余りが経った文久二年(一八六二)八月末、高岡は小二郎に一通の書状を長州藩邸の桂小五郎に届け、返書を受け取って来るよう指示した。 「久し振りの飛脚だね」 「手紙一通当りの口銭は一・五文、往復で三文いただきます」 長州藩桜田藩邸は鬱蒼(うっそう)とした楠の森に囲まれている。門の左右を各々十人もの槍を持った門兵が固めるといった物々しい警戒ぶりで、小二 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(82)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(81) 小説 5月23日 将軍家茂と和宮の婚儀は予定通り執り行われたが、「坂下門外の変」は、和宮降嫁を幕藩体制強化のために天皇の権威を利用したものと批難する尊王攘夷派を勢い付かせ、彼らによる公武合体派に対する攻撃、テロが横行するようになった。 京都では、朝廷内の尊攘派が力を増し、和宮降嫁を推進した岩倉具視や女官今城(いまき)重子(しげこ)らは「四奸(しかん)二嬪(にひん)」と呼ばれ、蟄居、落飾の処罰を受けた。岩倉は洛北の 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(81)
辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(80) 小説 5月22日 尊王攘夷か公武合体か。熾烈な政治闘争が続く中でも、市井では変わりない日常生活が営まれていた。 文化十一年(一八一四)の刊行開始から二十八年後の天保十三年(一八四二)に全九十八巻、一〇六冊をもって完結した『南総里見八犬伝』は、明治時代にまで及ぶロングセラーとなった。この頃、江戸の貸本屋は七百軒を数え、寺子屋は江戸市中に千三百、全国で一万校を越え、しかも幕末に向けて激増している。高等教育機関の藩校、 辻原登「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(80)