クラレ社長 川原仁氏(上) 私の課長時代 5月11日 ■1984年、逆風の繊維産業の門をたたく。 「良い時に入社した。今は一番厳しい時代だから、経験が勉強になるぞ」。社内で最大だったテキスタイル(織物・編み物)事業本部の輸出部に配属され、上司からこう励まされました。当時のクラレは売上高の8割を繊維が占め、80年代は日米貿易摩擦や円高で陰りの時代。しかしバイオや光ファイバーなど、高分子化学の新規事業への挑戦も盛んで「面白そう」と迷わず門をたたきまし クラレ社長 川原仁氏(上)
GSKコンシューマー・ヘルスケア・ジャパン社長 野上麻理氏(下) 私の課長時代 5月4日 ■プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)で多国籍チームを率い、激務の末の気づき。 入社9年目の2000年、生理用品「ウィスパー」の海外新製品のマネジャーになりました。米国やアジアの多国籍チームで、「英語の下手な若者がリーダーにくるぞ」とお手並み拝見の雰囲気。日本やアジアの情報を丁寧に伝えて各地域の橋渡し役をし、信頼を得るように努めました。 当時はパソコンが1人に1台なく、付箋を貼って順番に使 GSKコンシューマー・ヘルスケア・ジャパン社長 野上麻理氏(下)
GSKコンシューマー・ヘルスケア・ジャパン社長 野上麻理氏(上) 私の課長時代 4月27日 ■1992年、米プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)の日本法人に入社。「同期で一番に出世したい」と競争心。 就職活動では大阪の実家から通える20社ほどを受けました。バブル景気の余韻で金融が人気。ですが、待遇で男女差の残る日本企業で働くイメージが湧きません。米国留学のホストファミリーがP&Gの元工場長で、「良い会社だよ」との一言を思い出しました。大学で学んだ市場調査部門に応募すると、面接官に GSKコンシューマー・ヘルスケア・ジャパン社長 野上麻理氏(上)
日本郵船社長 長沢仁志氏(下) 私の課長時代 4月13日 ■冷凍船でM&A(合併・買収)決裂も学ぶ。 冷凍船業界で戦うにはシェアが重要になります。1994年、当時の世界首位だったスウェーデン企業に買収を提案するため、現地に送り込まれました。ですが、M&Aの知識を勉強したことがなく、地獄の始まりでした。 一夜漬けで専門書を読んでもさっぱり分からず、極寒の季節に1カ月ほど朝から晩まで部屋にこもり、リポートを更新する毎日。最終的に決裂しましたが、初の買収交 日本郵船社長 長沢仁志氏(下)
日本郵船社長 長沢仁志氏(上) 私の課長時代 4月6日 ■海運大手では珍しい冷凍船部門で果物の輸送に奔走。 入社9年目の1988年に冷凍船部門に配属されました。課長になったのも同じ部署です。11年間、ブドウやリンゴなどの果物を多く取り扱いました。 日本郵船は顧客の貨物に合わせて船を造る堅い仕事が中心です。ところが冷凍船は安定収益の期待できる長期契約がほとんどありません。市況は極めて変動が大きく、予測が難しいビジネスでした。日本郵船の本流から最も離れ 日本郵船社長 長沢仁志氏(上)
アース製薬社長 川端克宜氏(下) 私の課長時代 3月30日 ■課長時代で最も印象に残っているのは初めての海外出張だ。 課長になって3年目の2005年、インドネシアへ出張しました。ある現地企業を買収する可能性があり、実現性などを検証するためです。販売、生産、研究など各部署から幹部と若手、合計10人ほどが選ばれ、実情を見てこいという趣旨でした。当時の大塚達也社長からは「出張は遊びじゃない。現地では飲酒もゴルフも禁止」と厳命されていました。 当時のインドネシ アース製薬社長 川端克宜氏(下)
アース製薬社長 川端克宜氏(上) 私の課長時代 3月23日 ■1994年、アース製薬に入社し、地元である大阪支店の営業2課に配属された。以来、一度も異動することなく8年後に課長になった。 初めての管理職である係長になったのは入社8年目です。第一選抜の同期より3年遅れました。営業成績では負けていないのに、なぜだという思いが続きました。上司が数字を上げる私を異動させたくないため、昇進を遅らせていたのでは、と疑ったほどでした。 ■異例のスピード昇進に自分も アース製薬社長 川端克宜氏(上)
アサヒグループHD社長 勝木敦志氏(下) 私の課長時代 3月16日 ■ニッカウヰスキーは経営不振が続き、アサヒビール(現アサヒグループホールディングス)の完全子会社となる。 ニッカは1998年に最終赤字に転落しました。私は経営企画部に戻り、改革計画をつくることになりましたが、売り上げの減少は止まりません。ピークだった88年の1153億円から2000年には443億円まで落ち込みました。そして01年2月、ニッカはアサヒの完全子会社になりました。生産部門はニッカに残 アサヒグループHD社長 勝木敦志氏(下)
アサヒグループHD社長 勝木敦志氏(上) 私の課長時代 3月9日 ■1984年、ニッカウヰスキー入社。朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)が筆頭株主だが独立経営を貫いていた。 学生時代、ハイキング部で山ばかり歩いていた私は就職活動に出遅れました。実家は酒販店。酒業界なら面接もどうにかなると思い採用試験をいくつか受けると、最初に内定をもらったのがニッカウヰスキーでした。アサヒビールは受けませんでした。 配属は財務課でした。会社の活動をお金の流れで示せること アサヒグループHD社長 勝木敦志氏(上)
ファミリーマート社長 細見研介氏(下) 私の課長時代 2月23日 ファミリーマートの親会社である伊藤忠商事時代、私の課はアパレルや宝飾の高級ブランド品を輸入していました。ただ、手間がかかる割には大きくなりません。悩んだ末、ブランドの販売権そのものを取得する方針にかじを切りました。 ■有名カバンブランドの争奪戦でファンドと一騎打ちに。 2001年の米同時テロの影響で旅行需要が落ち込み、経営危機となったカバンの有名ブランドが売りに出ていました。米国の「レスポート ファミリーマート社長 細見研介氏(下)