島正博(8)生涯の伴侶 私の履歴書 3月8日 生涯の伴侶となった妻の和代に初めて会ったのは高校時代。旧姓は高橋。同じ年生まれだが、学年は1級下で、和歌山県立那賀高校のハンドボール選手として国体に2度出場するなど、地元では有名なスポーツ少女だった。 当時私の実家の斜め前に和代の実姉が経営する美容室「エリー」があり、時折手伝いに訪れ、周囲の雰囲気をパッと明るくする快活さに惹(ひ)かれるようになった。ただ、当時の私は編み機・ミシン修理工場で連日真 島正博(8)生涯の伴侶
島正博(7)「手袋革命」 私の履歴書 3月7日 1955年5月、着脱が簡単で作業員が手や身体を機械に巻き込まれる事故を防ぐ「ゴム入り安全手袋」の実用新案登録を出願した。だが意外にも、特許庁から「却下」の判断が伝えられてくる。 理由は不明。ゴム入り靴下が現存するからともいわれたが、貯金を全額はたいて出願したのだ。「はい、そうですか」と諦められない。不服審判請求にはまた資金が必要。支援してくれる人はいないか。藁(わら)をもつかむ思いで頼ったのが、 島正博(7)「手袋革命」
島正博(6)ゴム入り手袋 私の履歴書 3月6日 私が物心ついた頃、わが家に手動の手袋編み機が5台あった。ただ、稼働していたのは2台。当時編み機の保有登録をすると国が糸を支給してくれた。1台ごとに糸の支給量が決められていたため、父は自分の出征後に家計が成り立つよう、機械を追加で購入し原料を確保したらしい。 こんな事情で残り3台は物置小屋に眠っていた。空襲で自宅内にあった2台は焼けて使い物にならなくなったが、お蔵入りしていた3台は無事だった。戦後 島正博(6)ゴム入り手袋
島正博(5)初の製品 私の履歴書 3月5日 1952年4月に入学した和歌山県立光風工業高は翌年、和歌山工業高に校名が変わった。朝8時から夕方5時まで隣家の編み機修理工場「池永製作所」で働き、一番風呂に入って汗と汚れを落とした後、自転車で夜学に通うのが当時の私の日課だった。 池永製作所の経営者、岩城仁三郎さんは機械の改良が好きな「町の発明家」。戦前戦中、研究にのめり込んで本業の資金繰りが苦しくなると、私の父に運転資金の融通を頼むこともあった 島正博(5)初の製品
島正博(4)「クモの巣理論」 私の履歴書 3月4日 焼け跡で生き延びるため畑の開墾や野菜栽培、天ぷら屋のまね事などをやったおかげで随分とマセた小学生になった。4年生の時、母と妹が腸チフスに感染した。学校で予防接種を受けた私は無事だったが、今でいう濃厚接触者のように自宅待機を命じられた。数日間やることもなく、家でぼんやりしていると、窓枠のクモの巣が目に入った。 クモはいつも巣の真ん中に陣取っているが、蛾(が)やハエなど獲物が掛かると素早く捕獲し、ま 島正博(4)「クモの巣理論」
島正博(3)生きる技術 私の履歴書 3月3日 空襲で自宅が焼けた私たち家族は西要寺のお堂にそのまま厄介になった。空襲当日、勤務先の造船所に出かけ留守だった祖父も合流。寺には同様に家を失った近隣住民が100人ほど避難していた。 閉口したのはヤブ蚊の襲来だ。これはかなわんと、焼け跡にバラックの仮住まいを建てることになった。祖父らは焼け残ったトタン屋根などを集めたが、足りない。そんな時、目に留まったのが墓地に並ぶ角塔婆。「あれは柱になるな」と子ど 島正博(3)生きる技術
島正博(2)和歌山大空襲 私の履歴書 3月2日 山林王国の和歌山では明治初期から建具の製造が盛んになり、昭和の初めには市内に10軒ほどの建具屋があった。そのうちの1軒が生家である。祖父・福松が創業し、父・武夫は2代目。1937年3月10日、私は武夫と母・二三四(ふみよ)の長男として生まれた。 祖父と祖母・種代は再婚同士で父は祖父の、母は祖母の連れ子だった。義理の兄妹が長じて夫婦になったわけだ。私の生後間もなく父は最初の召集を受け、その時は半年 島正博(2)和歌山大空襲
島正博(1)発明人生 私の履歴書 3月1日 編み物(ニット)の歴史は古い。人類が初めて紐(ひも)状のものを絡み合わせ物を作り上げたのは旧石器時代という。 故郷・和歌山は国内有数のニットの産地である。生家の隣家が編み機の修理工場で、中学時代からそこに出入りし手伝いをするようになった。工場に持ち込んで三輪車に改造した中古のスクーターが街中を走ったものだから、地元では「発明少年」と呼ばれ、ちょっとした有名人になった。高校では一段と発明に熱中。ハ 島正博(1)発明人生
堀威夫(27)いつも青春 私の履歴書 2月28日 ホリプロ本社の玄関には、井上ひさしさん直筆の言葉が掲げられている。 「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」 1980年代半ばのこと、月刊誌で井上さんの書斎にこの言葉が張り出されているのを見た。我が意を得たりとすぐ電話した。「誰の言葉ですか」「僕のです」 それならぜひ社員のために書いてください、とお願いした次第。井上さんは放送作家時代、テレビプロデューサーの井原 堀威夫(27)いつも青春
堀威夫(26)株式公開 私の履歴書 2月27日 株式公開の情報を聞きつけた野村証券の担当者たちが会社にやってきた。調べて言うには「堀さん、ホリプロには仕入勘定がありませんね」。 森昌子や山口百恵は「スター誕生!」の日本テレビが手がけたから、仕入れは発生していない。ホリプロタレントスカウトキャラバンは仕入れかもしれない。ただ優勝者ひとりに、どれだけコストがかかったかなんて、わかろうはずもない。 芸能ビジネスは人が原資だ。兜町と芸能界とで、モノサ 堀威夫(26)株式公開