父の被爆者救済で誤解も それでも親子 6月21日 ――お父様は原爆被害者の研究者だったそうですね。 「米国の政府系病院で心臓内科医をしていたのですが、自ら志願して米原爆傷害調査委員会(ABCC)に入りました。私が5歳の時、サンフランシスコから広島へ家族で来ました。母が日本人だったことは直接関係なく、被爆者の調査と救済をしながら両国の橋渡し役をする使命感があったのだと思います」 ――広島時代、どんな話をしましたか。 「広島市の比治山という小高い山 父の被爆者救済で誤解も
歌好きの母の言葉、背中押す それでも親子 6月14日 ――エネルギッシュなお母様だそうですね。 「とにかく話し好き。誰にでも声をかけ、すぐに仲良くなるタイプです。だからというわけでありませんが、姉と私は無口な方です。そこは父親似かもしれません」 「子どもの頃、母と一緒に買い物に出かけるのが嫌でした。知り合いに会うたびに長時間話し込み、なかなか買い物が進みません。早く帰りたいのに、こちらの気持ちなど一切お構いなしでした」 ――中学生以降は。 「中1の 歌好きの母の言葉、背中押す
母をみとるため生まれた それでも親子 6月7日 ――幼いときにお父様を亡くされ、お母様と支え合ってきました。 「2歳のとき、商社勤めの父の赴任先だった米ニューヨークから家族で帰国し、父方の祖母、両親、年の離れた兄の5人で横浜に暮らしました。ほどなく父が闘病生活に入り、私が7歳のときに亡くなりました。お通夜では悲しむ母を元気づけようと、あえて明るく振る舞ったのを覚えています」 ――人の気持ちが分かる繊細な子どもだったのでしょうか。 「はい。ただ 母をみとるため生まれた
進路決断、父には事後報告 それでも親子 5月31日 ――お父様は大手企業に勤め、現在は行政書士をされているそうですね。 「まじめできちょうめん。会社員のころは、いつも忙しそうにしていました。片付けが得意で、口癖は『出したら、片付ける』。今、私も気が付くと『片付けなきゃ』と口に出しています。明らかに父の影響ですね」 ――お母様は。 「母は大学卒業後、フリーのアナウンサーをしていました。いったん専業主婦になって子育てに専念。保育士の資格を持っているの 進路決断、父には事後報告
父が山・海に、体験し「世界」知る それでも親子 5月24日 ――お父様の影響で、幼少期から様々なスポーツに親しんだそうですね。 「小学校に上がる前から父はいろいろな場所に連れていってくれました。山や海、川に湖。野球観戦やスキーなど、特別な場所に行けるのも楽しかったです。当時会社員だった父はバイクが趣味で、常にやりたいことを持ってました。『人生を楽しんでいるな』と隣で感じていました」 「僕にスキーを滑れるようになったり、海で泳げるようになったりしてほしいと 父が山・海に、体験し「世界」知る
母に愛された記憶、自信に それでも親子 5月17日 ――熊本県のご出身ですね。 「3人姉弟の真ん中です。野球をして、河原でずぶぬれになるなど、自然の中で育ちました。子供のころは遊んでばかりで、両親から勉強しろと言われたことはまったくありませんでした」 「現在、運営する学習塾では自然の中で遊ぶことや、親が強制するのではなく子供自身が勉強の面白さを知ることの重要性などを教えています。幼少期の自分の経験が原点にあったと思います」 ――どんなお母様でした 母に愛された記憶、自信に
笑いの力、教えてくれた父 それでも親子 5月10日 ――お父様はどんな方でしたか。 「いつも人を笑わせようとしていました。よく怒る人でもあったのですが、その怒り方が喜劇のようにどこかユーモラスで、母と私はそれを見て笑っていました。怒りや悲しみを笑いに変える力を父は見せてくれたように思います」 「中学2年時に父は急性心筋梗塞で他界してしまったのですが、先見の明がありました。友達がうまくできなかった7歳の私に、『お前の友達はこの箱の中になんぼでもおる 笑いの力、教えてくれた父
父「道外させまい」最初は反対 それでも親子 4月26日 ――ご両親はどんな方ですか。 「父は私が生まれる少し前に着物を中心とした衣料品会社を立ち上げました。買い付けに行くこともあり、私が小さい頃は家にいない日が多かったです。職人気質で仕事に熱心な父は『九州男児』という言葉が似合います」 「母は皆を優しく包み込むような人で、怒った姿は見たことがありません。中学を出て理容師となった苦労人です。姉と私の子育てが落ち着くと、定時制高校で学び、卒業後はホームヘ 父「道外させまい」最初は反対
怒らぬ父「好きなことをせい」 それでも親子 4月19日 ――どんなお母様でしたか。 「おかんはものすごく頭よかって、中学でも成績はトップクラス。だから周りも、ものすごく頭がええ子が生まれるって期待してたら僕が生まれたんですよ」 「ほんと、うちのおかんはむちゃくちゃ恐かったです。勉強できへんなんて怒る怒る。通知表を持って帰るのがつらくて。成績が3、4でもダメで。オール5じゃないとめちゃくちゃ怒るんですよ。小学6年のときに高知から大阪へ引っ越してからは、 怒らぬ父「好きなことをせい」
「少数派であれ」父の教え実践 それでも親子 4月12日 ――どんなご両親でしたか。 「海軍大尉だった父はエリートの栄光を背負っていました。戦艦に搭乗中、米軍の攻撃で被弾して意識不明になり、第一線を退いて終戦直前に母と結婚しました。故郷の岐阜に戻ってもチーズやハムを食べ、『発明家になる』と夢見がちな人でした」 「母は軍人の父を、星座になぞらえて『アンタレスの君』と呼んで慕いました。ロマンチックラブイデオロギーそのものの恋愛結婚です。夫婦とは愛し合って結 「少数派であれ」父の教え実践