作家 門井慶喜(5) こころの玉手箱 3月5日 小学6年生のとき転校したことは第1回でふれた。家の転居のためだったが、それをふくめて、私はこれまで11回、引っ越しというものを経験している。 人とくらべて多いのか、少ないのか。その11回目はほんの最近、先々月のことだった。仕事場を変えたのである。 もともとは賃貸の2LDKでせっせと原稿を書いていたのだけれども、本があふれて他の場所に置かざるを得ず、ちょっとの調べものにも効率を欠く状態だった。これ 作家 門井慶喜(5)
作家 門井慶喜(4) こころの玉手箱 3月4日 写真のトロフィーは、2019年、アメリカでおこなわれた国際フィルム&ビデオ祭で銀賞を受賞したときのものである。 ここには世界中から作品があつまるので、要するに世界第2位の快挙である。厳密には私がもらったのではない。この年のお正月にNHKで放映されたドラマ「家康、江戸を建てる」前後編のうち、後編「金貨の町」が受賞したのだ。 私はただの原作者にすぎず、お手柄はNHKのものなのだが、それでもドラマ担当 作家 門井慶喜(4)
作家 門井慶喜(3) こころの玉手箱 3月3日 はじめての子が生まれたとき、私は無職だった。もともとサラリーマンだったのだが、「オール讀物」誌への投稿が新人賞の最終選考に残ったのを機にすっぱり辞めていたのだ。 受賞を機に、ではないところが暴挙である。そんな夫の姿を見て、妻は、 ――この子は、ちゃんと育てなければ。 と思ったのかどうか。わりあい早くから熱心に字を教えはじめたようである。 ひらがなを教えるのに積み木を使ったのは、たぶん他の家庭とお 作家 門井慶喜(3)
作家 門井慶喜(2) こころの玉手箱 3月2日 同志社大学の日本史学科(正式名称はもっと長い)に入学し、3回生になると、ゼミは竹居明男先生のそれをえらんだ。 先生はのちに『日本古代仏教の文化史』を上梓(じょうし)することになる若き教授で、当時は40代前半だった。毎週のゼミは勉強になったが、先生はときどき、史料のなかのたった一字にこだわる大切さを説くのとおなじ口調で、他愛(たあい)ないダジャレを飛ばされた。私たち口の悪い学生が、 「そういうダジ 作家 門井慶喜(2)
作家 門井慶喜(1) こころの玉手箱 3月1日 小学6年生のとき転校した。父が家を建てて引っ越したからである。 転校先で多少いじめを受けたのは、まあ一種の通過儀礼かと今なら笑いとばすこともできるけれど、当時は心が不安定だったのだろう、いわゆる委員会活動には放送委員をえらんだ。 顧問が担任の先生だったのだ。クラスで唯一の味方だった。冗談の好きな、たぶん20代の男の先生。 放送委員の大きな仕事は、給食の時間にある。週に一度、放送室へ行って、校内の 作家 門井慶喜(1)
社会学者 橋爪大三郎(4) こころの玉手箱 2月26日 父は会社勤めで、転勤を繰り返しながら5人の子供を育て、退職してから焼き物を始めた。もともと美術が好きで、岡山勤務のとき備前焼の窯元に通った。サラリーマンは我慢の日々だったのだろう。そのうち髪をのばし風貌は鈴木清順のようで、派手な服は「あっと驚くタメゴロー」だ。ガス窯を購入し、全国の粘土と釉薬(ゆうやく)を取り寄せ、自己流で陶芸教室を始めた。 折からの焼き物ブームで口コミで、陶芸教室は盛況だ。居間 社会学者 橋爪大三郎(4)
社会学者 橋爪大三郎(3) こころの玉手箱 2月25日 昔はよく人が死んだ。母と仲よしのすぐ上の兄も亡くなった。女学校で今度は母が病気になった。快復したが学年が遅れた。どっちの学年にも友達ができた、と母は楽しげに回想する。苦労もしたはずである。 母は素直で屈託がない。5年生の頃、ひと回り年の離れた姉に呼ばれた。「お前はわたしと違って器量がよくない。せめて性格をよくしなさい」。姉もよく言うが、母はなるほどと思い、性格をよくしようと心がけた。姉は祖母に似 社会学者 橋爪大三郎(3)
社会学者 橋爪大三郎(2) こころの玉手箱 2月24日 祖父は会津の出だ。戊辰戦役で薩長に攻められ、曽祖父は城下で戦死した。乳飲み子の祖父は曽祖母におぶわれ竹藪(たけやぶ)に逃れた。遺骸は見つからなかった。藩の生き残りと家族は下北の僻地にやられ大勢が亡くなった。会津全体が朝敵にされた。曽祖母は何人もの子供らを苦労して育てた。 祖父は東京に出て学校に通ったが、途中十年ほど経歴に空白がある。何をしていたか父も知らない。明治28年に商店に就職し「手代八等」 社会学者 橋爪大三郎(2)
社会学者 橋爪大三郎(1) こころの玉手箱 2月22日 母方の祖父(母の父)は姫路の出身で神戸に勤め、須磨に家があった。私が生まれる前に亡くなり、会ったことはない。須磨の駅からリキュウミチを母と登って行くと、祖母の住む家に着いた。石の蛙(かえる)や珍しい雑貨や玩具が沢山で、須磨に行くのは楽しみだった。 祖母は織部といった。姉は織賀、妹は圓。オルガ/オリーブ/アンの三姉妹である。祖母の父が明治初期に英語に凝って、子供に英語の名前をつけたのだ。 祖母が嫁 社会学者 橋爪大三郎(1)
指揮者 藤岡幸夫(5) こころの玉手箱 2月19日 1994年、ロンドンの音楽祭「プロムス」にBBCフィルハーモニックを指揮してデビューした。その演奏を聴いたレコードレーベル「シャンドス」の社長から声がかかった。なんと、好きな曲でCDを出してくれるのだという。 楽団はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」やストラヴィンスキーの「春の祭典」を提案したが、既にあまたの名盤がある。私は迷わず「吉松隆でお願いします」と言った。周囲は吉松さんのことを知らな 指揮者 藤岡幸夫(5)