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ポストゲームショー(田口壮) ダルビッシュ、逃した快挙と記録員の「情」

レンジャーズのダルビッシュ有投手が、9日のレッドソックス戦であと打者1人というところで無安打無得点を逃しました。昨年4月も完全試合にあと1人と迫っていて、それだけに惜しかったのですが、私にはプレー以外にも印象に残ったことがありました。それは公式記録員の「情」です。

通常は安打とされるべき打球が…

初回から鬼気迫る投球をしていたダルビッシュ投手にとって、ああ初被安打か、という場面が七回にありました。

2死からレッドソックスの4番デビッド・オルティス選手の詰まった一打が二塁手の頭を越え、右翼手の前に落ちました。どちらのグラブにも触っていないのですから、通常は安打とされるべき打球でした。

ところが記録員は右翼手の失策としたのです。この判定により、ダルビッシュ投手の無安打投球は継続され、最終回にいたるわけです。

迎えた九回2死。打者はまたもオルティス選手です。さすがにメジャーを代表する打者です。「オルティスシフト」の狭い内野手の間を抜いて、無安打無得点の屈辱を免れたのでした。

それでもダルビッシュ投手の投球、打ち返したオルティス選手ともに、素晴らしい一投一打でした。今季のメジャーのベストシーンの一つとして残るかもしれません。

人間としての感情持ち始めた記録員

それほどすごい勝負でしたが、そもそも七回の打球が失策とされていなければ九回のドラマはありませんでした。あれは記録員の粋な"演出"だったといったら、言い過ぎでしょうか。

私は今回の判定は公式記録のあり方に一石を投じるものだったと思います。

記録員が機械的にプレーを評価するのでなく、人間としての感情を持ち始めたのかな、というところに潮流の変化を感じるのです。これまでは「選手・監督らのユニホーム組プラス審判」が野球という"舞台"の出演者だったわけですが、今、記録員という第3の役者が出てきたわけです。

あの一打が失策と判定されたら、右翼手はもちろん、打ったオルティス選手も怒ります。ヒット1本損したわけですから。

しかし、記録員も人間です。その心情を考えてみましょう。

快投どこまで、期待する空気に包まれ

ダルビッシュ投手の投球はあまりにも素晴らしく、いい当たりをされながらもたまたま打球が野手の正面に行って抑えた、という内容ではありませんでした。直球は速い、スライダーは切れまくるということで、レッドソックス打線を完全に牛耳っていたわけです。この快投がどこまで続くか。レンジャーズの本拠地のスタンドの期待は高まったはずですし、記録員もそうした"空気"に包まれていなかったでしょうか。

記録員としては右翼手が普通にダッシュし、通常の守備をすればアウトにできた飛球と判断したわけですが、やはり「見えざる手」が働いたのではなかったでしょうか。

この判定には米国でも賛否両論ありました。実際、オルティス選手らレッドソックス側の異議申し立てを受け、問題の一打は5日後の14日、安打と訂正されました。メジャーでは記録の訂正はたまにありますし、あるべき判断に戻ったという意味ではよかったと思います。「過ちを改むるに憚(はばか)ることなかれ」ですね。

1つの記録を巡って「もう終わったこと」といって放っておかず、みんながこんなに熱く議論すること自体に、私はメジャーの奥深さを感じます。

記録員のある程度の"演出"は「あり」

さて、あの判定は結果的に過ちだったとされたわけですが、では記録員は一つのマシンと化して、眉一つ動かさずに判定を重ねていけばそれでいいのでしょうか。私はプロとしての野球がエンターテインメントである以上、記録員によるある程度の"演出"は「あり」ではないかと思っています。

ビデオ判定が幅広く導入されて、「アウト」「セーフ」は機械の目で判定されるようになりました。そういう時代ですから、なおさら人間の温かみが恋しくなりますし、記録に関して人の感情が表れることがあっていいのではないでしょうか。

完全試合や無安打無得点がかかった試合の終盤に、ちょっとした手心が働く例はこれまでもなかったわけではないようですが、今回は記録員の感情のようなものが、もう一歩前面に出てきたという点で、重要な事例になるはずです。

公式記録の潮流の変化を感じるのはこの例だけではありません。エンゼルス―ヤンキース戦で、こんなことがありました。

右中間の打球を中堅手と右翼手が追いました。外野守備においては原則的に中堅手が中心ですから、どちらも捕れる飛球は中堅手に任せます。このときも中堅手が追いつき捕球体勢に入りました。そのとき何を思ったか、右翼手がしゃしゃり出てきて交錯。中堅手は落球してしまいました。

失策の責任は誰…画期的な"判例変更"

昨年までの"判例"に従うのであれば、この場合、落球した中堅手に失策が記録されます。ところが記録員は右翼手に失策をつけたのです。

これは一般社会の裁判にたとえると、画期的な判例変更です。以前は「実際は誰がいけなかったのか」を問うことなく、直接プレーに関わった者の過失としてきました。しかし、このケースでは失策の発生原因をたどり、直接ボールに触っていない野手の責任を追及したのです。

表面的な事実でなく、事の本質で判断する方向に向かっているのだとすると、これも好ましいことではないでしょうか。

日本には専任の記録員がいますが、メジャーではベテラン記者らが記録員を務めます。サンケイスポーツの記者で、日本人として初めて昨年のワールドシリーズの公式記録員を務めた方がいます。彼にこんな悩みを相談されました。

「野手に失策の記録をつけるときに、果たして見た目に起こったことだけで判断していいものだろうか」

「野手の感情まで考慮してもらえたら」

野球を熟知している彼は凡プレーにしかみえないプレーでも、試合の状況や選手の心理状態、気象条件など、いろんな要素がからんでいることを知っているわけです。だから「結果だけで、その野手のミスと決めつけていいのだろうか」と悩むわけです。

私は答えました。「野手の感情まで考慮してもらえるとありがたいですよね」

外野手が前に飛んできたヒットの処理を誤り、二塁に行かせてしまったとします。失策とするのに何ら迷うことはない、と思われるかもしれませんが、打者の足が速いか遅いかだけでも、外野手が受ける心理的プレッシャーは格段に違います。

外野の芝が深い球場で、足の速い打者が外野手の前にヒットを運んだとします。打球の勢いが死んでしまいかねないので、外野手は待って捕るのでなく、できるだけ前進して処理しないと「ライト前の二塁打」などということになりかねません。

こうしたプレッシャーを受け、目いっぱいチャージした結果、ボールをはじいたとしたらどうでしょう。同じようにみえるミスでも、油断や怠慢、技術不足で起こるものとは違うわけです。

落ち度ない不可抗力なのに「失策」も

そこまで見て判断してほしいといったら、選手の甘えだといわれるかもしれません。しかし、結果的に失策の判定が下されるにしても、記録員がそこまで察したうえで判断してくれたらうれしいな、というのが多くの選手の本音だと思います。

全く落ち度のない不可抗力によって、失策がつけられるケースもあります。

特に外野から本塁に返球する場合に起きやすいのが、「ストライク」の返球なのに、本塁に突入した走者に捕手が吹っ飛ばされていた、というケースです。この場合、打者走者の余分な進塁などについて、返球した外野手に失策が記録されます。私もこういう形で何度も「E」=error=のランプを灯(とも)されたものです。

伝統的な記録の考え方としてはおそらく、走者の進塁については安打や四球など、なんらかの理由がなければならない、ということでしょう。そこで非のうちどころのないバックホームであっても、余分な進塁を許した場合は機械的に失策とするわけです。

「誰のせいでもない」記録があっても

野手としては「濡れ衣(ぎぬ)」を着せられたようなもので、これほど理不尽なことはありません。あくまで私見ですが、野手として他にプレーの選択肢がなく、不可抗力で起きたことに関しては「誰のせいでもない」という記録があってもいいのではないでしょうか。

ですから私は実質的な責任者に失策をつけたエンゼルス戦の判定に注目するのです。「しゃくし定規に判定するのでなく、プレーの中身を判断していこうよ」という流れの始まりかもしれないのです。

野球は記録のスポーツです。しかし、その記録のあり方にはまだまだ考慮の余地があるということではないでしょうか。

(野球評論家)

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