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習氏の「軍服」と李登輝氏の死去 北京ダイアリー(2020年7月)

中国総局長 高橋哲史

習氏の「軍服」と李登輝氏の死去(7月31日)

テレビ画面に映し出された習近平(シー・ジンピン)国家主席の表情は、どこか不機嫌にみえた。7月29日午後、人民解放軍の最高指導機関である中央軍事委員会が開いた「上将昇格式」に出席したときだ。

習氏は軍のトップである中央軍事委員会の主席を兼ねる。最高司令官だけが着られる「軍便服」と呼ばれる特別な中山服(人民服)に身を包み、ロケット軍政治委員の徐忠波氏を最高位の上将に任命した。

上将昇格式は、解放軍の創立記念日である8月1日に合わせて実施する恒例行事だ。1927年のこの日、誕生から6年たった中国共産党は江西省の南昌で初めて武装蜂起した。戦った相手は国民党軍だ。解放軍の始まりは、共産党が国民党に対抗するためにつくった軍隊だった。

その性格はいまも変わらない。中華人民共和国という国家の軍隊でなく、共産党直属の「党軍」である。最大の使命は、1949年に国民党が逃げ込んだ台湾の統一だと言っても過言ではない。

しかし、新中国の成立から70年以上がたっても台湾の統一は見通せない状況が続く。いや、むしろ遠のいている。米中衝突が激しさを増すなか、台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)政権は米国に接近する姿勢を強めているからだ。習氏が上将昇格式で見せた不機嫌な表情は、思い通りにならない現状への不満の表れに思えてならない。

30日夜、台湾の民主化に道を開いた李登輝元総統が死去した。

解放軍にとって、李氏は宿敵と言っていい。1996年に李氏の決断で台湾が初の総統直接選挙に踏み出したとき、解放軍は台湾周辺にミサイルを発射し、力で民主化を止めようとした。いわゆる「台湾海峡危機」である。

これに対し、米軍は2隻の空母を台湾海峡に派遣し、李氏が進める民主化を支持する姿勢を鮮明にした。米軍の強大な戦力を見せつけられた解放軍は、なすすべがなくなる。この時の「屈辱」を機に、空母の建造をはじめとする海軍力の増強にかじを切ったとされる。

30日午後、天安門広場から西に車で5キロメートルほどの場所にある「八一大楼」の前を車で通った。中央軍事委員会の本部があり、前日に上将昇格式を開いた場所だ。中国のペンタゴン(米国防総省)とも呼ばれる荘厳な建物は、台湾海峡危機が起きた翌年の97年に完成した。

習氏はここを訪れるとき、必ず自身にとっての「軍服」である軍便服を着る。台湾海峡や南シナ海で米軍との軍事的な緊張が高まるなか、最高司令官としてどんな判断を下すのか。それは世界の運命も左右する。

「ポンペオがすべて悪い」(7月29日)

その老人は目に涙を浮かべながら声を絞り出した。「米中は友人であるべきだ」。

中国政府は27日に四川省成都の米国総領事館を閉鎖した。その際、近くで様子を見ていたとされる老人の短い映像が中国のSNS(交流サイト)上に出回っている。

米政府がテキサス州ヒューストンの中国総領事館を24日に閉鎖し、中国人の対米感情は悪化の一途をたどる。にもかかわらず、老人の映像は多くの「賛(いいね)」を集める。米国の暴挙は許せない、でもけんかはしたくない。老人はそんな大多数の中国人が抱く本音を代弁したのだろう。

もう一つ、中国のSNS上で話題を集める投稿がある。米国の成都総領事だったジム・マリナックス氏が、中国の人びとに別れを告げる映像だ。

「成都は私と家族にとって『第2の故郷』です」。成都への留学経験があるマリナックス氏は、流ちょうな中国語でこう語り「私と成都の縁はこれからも続きます」と締めくくった。

マリナックス氏の離任はもともと決まっており、映像は総領事館の閉鎖を通告される前に撮られたものだ。それでも中国の官製メディアは、成都を去る同氏を「友人」として好意的に報じた。

ふたつの映像の拡散に、中国共産党の宣伝部門がどうかかわっているかはわからない。ただ、映像を削除する気配がないことから、習近平(シー・ジンピン)指導部にとって都合のいい内容であるのはまちがいない。

「米メディアの報道は、ポンペオが米国民の代表でないことをはっきり示している」。中国外務省の華春瑩報道局長は28日、ツイッターにこう書き込んだ。呼び捨てにされたポンペオ米国務長官は23日、中国との「決別」を宣言する演説をした。華氏はそれを批判する米メディアをとり上げ、ここぞとばかりにポンペオ氏を攻撃したのだ。

これまでもポンペオ氏を「人類共通の敵」と呼んできた中国は、ますます同氏とそれ以外の米国人を区別しようとしているようにみえる。成都総領事だったマリナックス氏をよき友として扱うのもその一環だろう。

諸悪の根源は「ポンペオ」であり、中国は彼とその一味を除いた米国人民とはこれまでどおりにつき合う。浮かんでくるのは、中国のそんな姿勢だ。

習指導部にとっては、自身を守るための便法でもある。大衆の間で米国への怒りがさらに高まり、大規模な反米デモに発展すれば、怒りの矛先はいつでも指導部の「弱腰」に変わりうるからだ。

28日午後に車で通った北京の米国大使館前は、3カ月前に来たときよりも警備が格段に厳しくなっていた。言論統制が徹底している中国でも、為政者が最も恐れるのはやはり世論だ。

ニクソン氏が登った長城(7月27日)

25日、北京近郊の八達嶺にある「万里の長城」を3カ月ぶりに訪れた。どうしても行ってみたい場所があったからだ。

「国民と国民の間に、どんな壁も存在してほしくない」。1972年2月24日、長城に足を運んだリチャード・ニクソン米大統領が語った言葉だ。私はニクソン氏がこの言葉を発した場所を確かめたかった。

長城は新型コロナウイルスの感染防止で入場を制限しており、観光客はふだんの半分以下しかいない。当時の写真と見比べながらニクソン氏が立った場所を探していると、初老の男性が話しかけてきた。「このあたりのれんがは長城ができた当時のものだよ」

私が「ニクソン氏もここまで来たんですよね」と尋ねると、男性は「さすがにこんな高いところまでは登っていないだろう。おそらくあの辺りだ」と少し下の方を指さし、こう付け加えた。

「私はニクソンのために雪かきをしたんだ」

陳さんというその男性は当時21歳で、建材を扱う国営企業で働いていた。ニクソン氏が長城を訪れる前日、北京には雪が積もった。陳さんは会社の指示で、長城に続く道路の雪かきにかり出されたという。

北京の中心部から八達嶺まではおよそ70キロメートルある。中国メディアによると、雪かきには周恩来首相の号令一下で約80万人の市民が動員された。米国の大統領を迎えるための夜を徹した作業は、いまも多くの市民が鮮明に覚えている。

「世界を変えた1週間」とも呼ばれたニクソン氏の訪中で、長く敵対していた米中は歴史的な和解を遂げた。「ニクソン氏の訪中が成功しなければ、米中の国交正常化はなかった」。そう語る陳さんは誇らしげだった。

「ニクソン氏より先まで登る」。ちょうど30年後の2002年2月に八達嶺の長城を訪れたのはブッシュ(子)米大統領だ。ニクソン氏が立った場所よりさらに高い場所まで歩を進めた。どんなに関係がこじれても、米国は中国に関与し続けるというメッセージだったにちがいない。

それから18年。「中国にやみくもに関与する古い方法論は失敗した。我々はそうした政策を続けてはならない」。7月23日、ポンペオ米国務長官は中国との「決別」を宣言する演説をした。選んだ場所は、カリフォルニア州のニクソン氏が生まれ育った場所にある記念館だ。ポンペオ氏はあえてこの場所で「自由主義国が行動するときだ」と述べ、各国に中国との戦いに加わるよう迫った。

米中の「新冷戦」はもはや避けられないのか。ニクソン氏の願いもむなしく、新たな壁が世界を分断しようとしている。

江沢民氏と「巨大な卵」(7月22日)

7月21日、人民大会堂のすぐ西隣にある「国家大劇院」が再開した。と言っても、見学だけだ。新型コロナウイルスの感染が拡大した1月24日から、コンサートや演劇の公演は中止しており、再開のめどは立っていない。

さっそく見学に行ってみた。インターネットで予約し、受付で40元(約600円)のチケットを買えばすぐに入場できる。見学だけでこの値段は高すぎるようにも思えるが、人によっては安いと感じるかもしれない。フランス人の建築家ポール・アンドリュー氏が設計したガラスをふんだんに使った斬新なデザインは、見る者を圧倒する。

ドーム型の外観から「巨大な卵」の愛称を持つ国家大劇院は、2007年秋に完成した。オペラハウスやコンサートホールなど合計で6000人を収容できる施設を備え、コロナ前は世界の著名なオーケストラが毎日のように演奏会を開いていた。クラシックファンにとっては、なじみの場所だ。

1990年代末に国家大劇院の建設を決めたのは、無類の音楽好きで知られる当時の江沢民(ジアン・ズォーミン)国家主席だ。入り口に掲げられた「国家大劇院」の大きな題字は、江氏の筆による。経済や軍事だけでなく、文化の面でも中国を世界の先頭に立たせたい。そんな願いを込めたにちがいない。

93歳になった江氏はいまどうしているのか。江氏が久しぶりに公の場に姿を現したのは、ちょうど1年前のきょう7月22日に亡くなった李鵬元首相の葬儀のときだ。習近平(シー・ジンピン)国家主席ら現役の最高指導部メンバーらとともに参列し、遺族に声をかける様子が国営の中央テレビに流れた。

健康不安説を打ち消すねらいがあったのだろう。江氏はふたりの付添人に支えられながら、自分の足で歩いていた。2カ月半後の10月1日に開かれた建国70周年を祝う式典でも、習氏を挟んで胡錦濤(フー・ジンタオ)前国家主席といっしょに天安門の楼上に現れ、国内外に健在ぶりをアピールした。

毎年8月上旬になると、習氏ら現役の指導部と江氏ら引退した長老は、保養地として有名な河北省の北戴河に集まって国政の重要課題を話し合う。いわゆる「北戴河会議」だ。

新型コロナの猛威が中国と世界を襲った今年、例年通りに会議が開かれるかどうかが大きな注目を集める。ウイルスが消え去っていない以上、いつもと同じ形で開くのは難しいだろう、というのが大方の見方だ。長老らにとっては、存在感を発揮する貴重な機会が奪われるかもしれない。

国家大劇院で江氏とゆかりのある展示を探したが、入り口の題字以外は見つからなかった。代わりに目に付いたのは中国共産党の創立99周年を祝う看板と、習氏の発言を記したプレートだ。

来年7月に迎える党の創立100周年に向けた準備は、ここでも着々と進んでいる。

共産党員を示すバッジ(7月20日)

中国共産党員とその家族はもう米国の地を踏めなくなるのか。中国社会のエリートである「党員」の間に激震が走っている。

きっかけは米紙ニューヨーク・タイムズの報道だ。同紙は16日、トランプ米政権が中国共産党員とその家族の入国を全面的に禁止する大統領令を検討していると報じた。すでに米国内にいる対象者についても、ビザ(査証)を取り消す可能性があるという。

北京で暮らす50代の男性党員は、報道に驚いてすぐに米国大使館のビザ発給センターに電話した。「本当に党員にはビザが出なくなるのか?」。応対した女性の答えはつれなかった。「まず名前とパスポート番号を登録してください。登録がなければ、いかなる質問にもお答えできません」。否定しない以上、報道は本当なのか。いつか米国を旅行したいと考えていた男性が受けたショックは大きかった。

影響は自分だけにとどまらない。子どもが米国に留学したくても、希望はかなわなくなる。すでに米国で学ぶ中国人留学生も、帰国を迫られる可能性が高い。彼ら彼女らの多くが、共産党員の子弟であるのは周知の事実だ。

中国共産党の党員は2019年末時点で約9200万人いる。その家族まで含めれば、対象者はおそらく3億人を下らないだろう。米国の総人口に匹敵する数だ。中国外務省の華春瑩報道局長は17日の記者会見で「報道が事実なら、米国は世界人口の5分の1を占める中国人民を敵に回す」と非難した。

ひとつの疑問が浮かんだ。米国はこれだけ多い中国共産党員とその家族をいったいどうやって見分けるのだろうか。

知り合いの党員に「あなたが党員だと証明するものはあるか」と聞いてみた。「特にない。強いて挙げれば党員バッジだろうか」。知人はそう言ってバッジを見せてくれた。実際、役所や博物館などで、このバッジをつけた人はよく見かける。

ところが、別の知人に聞くと「バッジはなくした」という。そんな大切なものをなくして大丈夫か、と問い返すと「必要になればネット通販でも買える」との意外な答えが返ってきた。

アリババの通販サイトで調べてみたら、確かに党員バッジはふつうに売っている。ひとつ2.3元(約35円)。100個まとめて買うと割引で210元になるそうだ。「長く使っても色落ちしません」などと宣伝するビデオまでついており、ほかの商品となんら変わりはない。

結局、米国はビザを申請する中国人に、党員なのか非党員なのか自己申告させるしかないはずだ。それは中国人にとって、踏み絵になるだろう。ビザが欲しければ「自分は中国共産党と関係ありません」と米国に誓うしかないからだ。

トランプ政権は攻撃対象を中国という国家でなく、「中国共産党」に絞りつつあるのかもしれない。

「習近平思想」の喉と舌(7月17日)

「中国共産党の指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である」。16日付の党機関紙、人民日報の1面トップにこんな見出しが躍った。習近平(シー・ジンピン)総書記(国家主席)が党理論誌「求是」の最新号に寄せた「重要文章」の題名だ。

内容は目新しくない。「党、政、軍、民、学、東西南北中の一切を党が指導する」「わが党はますます成熟し、ますます強大になり、ますます戦闘力を備えなければならない」。仰々しい言葉が続き、党へのさらなる権力集中をうたう。

月2回発行の「求是」はこのところ毎号、巻頭に習氏の文章を載せている。調べてみると、直近までの一年半、39回連続だった。

「求是」に最高指導者の文章がこれほど多く載った例はおそらく過去にない。胡錦濤(フー・ジンタオ)前国家主席は2期目の5年間で16回だった。2018年以降は習氏の文章掲載が突出しており、さながら「習近平思想」を伝える雑誌に衣替えしたかのようだ。

「求是」の前身である「紅旗」は1958年の創刊だ。建国の父、毛沢東氏が題字の筆を執り、マルクス主義の「正しい解釈」を示す雑誌としてスタートした。文化大革命の期間中は人民日報や軍機関紙の解放軍報と並んで最も権威ある「両報一刊」(2つの新聞と1つの雑誌)と呼ばれた。

1978年に最高実力者の鄧小平氏が改革開放に踏み出した後も、「紅旗」は毛沢東時代の革命路線を支持する保守派の牙城として存続した。88年、そこに大なたを振るったのが改革派の趙紫陽総書記だ。「紅旗」を事実上の廃刊に追い込み、新たな理論誌として「求是」を立ち上げた。

誌名は「実事求是」に由来する。事実に基づいて真理を探究する、という意味で、鄧小平氏ら改革派が、毛沢東氏の指示は絶対だとする保守派を批判する際に使った言葉だ。題字も鄧小平氏の筆に代わり、「求是」は改革派の拠点に生まれ変わった。

88年7月発行の第1号に、趙紫陽氏のブレーンが書いた「当面の政治体制改革の問題について」と題する文章が載ったのはその象徴だ。翌年の天安門事件で趙氏が失脚したあとも、「求是」は改革派に近い論調を色濃く残した。

その面影はもはやない。中国共産党はもともと、メディアを自らの主張の代弁者である「喉と舌」と呼んできた。習近平氏はそれを徹底し「両報一刊」を復活させようとしているようにみえる。

「求是」を発行する求是雑誌社は、かつて皇帝の住まいだった故宮から北東に少し歩いた静かな場所にある。趙紫陽氏の自宅も近い。2005年1月に亡くなった趙氏は、いまの「求是」をどうみているだろうか。

劉暁波氏の死と香港の今(7月15日)

中国の民主活動家、劉暁波氏が獄中で死去してから7月13日で3年がたった。

今年は12月に、同氏が獄中でノーベル平和賞を受賞して10年の節目も迎える。劉氏の願いとは逆に、中国の習近平(シー・ジンピン)指導部は香港国家安全維持法の制定を強行し、民主主義に対する一党支配の優位を世界に訴えようとしている。

2010年10月8日夕、私は劉暁波氏の妻、劉霞さんが住む北京市内のマンションの門前に立っていた。100人近いほかの外国メディアの記者らとともに、ノーベル平和賞の発表を待っていたのだ。

「彼が取ったぞ!」。だれかが叫ぶと、大きな歓声と拍手がわき起こった。その場にいた50代の中国人男性が涙を流しながら「劉暁波は中国の希望だ」と語ったのをおぼえている。劉霞さんは出てこなかったが「受賞は劉暁波だけのものではない。(民主化を求める)『08憲章』を支持したすべての人のものだ」とのメッセージを代理人が読み上げた。

中国が国際社会の声に耳を傾け、少しでも変わるきっかけになるかもしれない。そんな期待が膨らんだ。しかし、中国は変わらなかった。むしろ、それまで以上に一党支配をかたくなに守ろうとするようになった。

劉暁波氏は学生らの民主化運動を軍が鎮圧した1989年6月4日の天安門事件の直前に、広場でハンストを決行した知識人の一人だ。流血の事態を避けるために、学生らに広場からの撤退を呼びかけたことでも知られる。

劉氏が今でも国内外の尊敬を集めるのは、海外に逃れるチャンスがあったのに、あえて国内にとどまって共産党への批判を続けたからだ。2008年には他の民主活動家らといっしょに共産党の一党体制廃止や、司法の独立を求める「08憲章」を起草した。同年末に身柄を拘束され、10年2月に「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の実刑判決が確定した。ノーベル平和賞の受賞が決まったのはその年の10月だ。

獄中で末期の肝臓がんと診断され、61歳で亡くなったときは、香港で追悼活動が広がった。いま思えば、多くの香港人が劉氏と自分たちの未来を重ね合わせていたにちがいない。今年6月末に香港国家安全法が施行され、不安は現実になった。

劉氏が未来を託したのは教育だ。1980年代半ばに北京師範大学の講師として民主化の必要性を説き、多くの学生が民主化運動に加わった。その教えは香港の民主派にも脈々と受け継がれている。

13日、劉氏がかつて教壇に立った北京師範大学の前まで行った。新型コロナウイルス対策で構内には入れず、辺りはひっそりと静まりかえっていた。劉氏は香港の今をどうみているのか。もうその声を聞く機会はない。

中朝「血の同盟」の行方(7月13日)

7月11日は、中国と北朝鮮にとって記念日だった。

1961年のこの日、中国の周恩来首相と北朝鮮の金日成首相が北京で「中朝友好協力相互援助条約」に署名した。どちらかの国が武力攻撃を受けたら、もう一方の国は全力で支援する。それを約束した事実上の軍事同盟条約だ。

建国の父である毛沢東氏は、1950年10月に金日成氏の強い要請を受けて朝鮮戦争への参戦を決断した。300万人近い義勇兵を朝鮮半島に送り込み、戦死者の数は15万人とも20万人とも言われる。その中には毛沢東氏の長男で、当時28歳だった毛岸英氏もいた。

米軍機の爆撃による毛岸英氏の死は、中朝のきずなの深さを表す「血で結ばれた同盟」の象徴だ。金日成氏を継いだ金正日(キム・ジョンイル)総書記、そして3代目の金正恩(キム・ジョンウン)委員長も中朝関係の節目で、北朝鮮国内に残る毛岸英氏の墓を参拝してきた。それは北朝鮮が中国の支援に謝意を示す儀式と言っていい。

毛岸英氏は毛沢東氏の2番目の妻、楊開慧氏の子として1922年に湖南省の長沙で生まれた。8歳の時に母親が国民党に処刑され、1930年代の後半から10年近くはソ連に留学した。朝鮮戦争の義勇軍に志願したのは、総司令官だった彭徳懐将軍(後の国防相)がロシア語の通訳を必要としたからだ。

戦地に赴く直前は、北京の機器工場で幹部として働いた。この工場は当時、元や明、清の時代に最高学府の「大学」が置かれた国子監の孔子廟(びょう)を仮の宿舎とし、毛岸英氏もそこで暮らしたという記録が残っている。

中朝友好協力相互援助条約の署名日である11日、その国子監を訪ねてみた。「毛岸英はここに住んでいたんですか」。工場の宿舎だったとされる「大成殿」の前で係員に尋ねると「それは全く知らないなあ」との答えしか返ってこなかった。毛岸英氏はすでに歴史上の人物であり、その名前すら知らない若者も多い。

中朝の「血盟」を担保する同条約は、20年に一度更新する仕組みになっている。次回は1年後の2021年7月11日だ。

核・ミサイル開発に突き進む北朝鮮は、米国との対決姿勢を強めている。仮に米国が北朝鮮に武力攻撃を仕掛けたら、中国は条約にのっとって北朝鮮を守らなければならない。中国からみれば条約の維持は、自分たちの意思に関係なく朝鮮半島の有事に巻き込まれるリスクを伴う。

一方で、トランプ米政権との対立が激しさを増すなか、北朝鮮との「血盟」は米国をけん制する材料になる。習近平(シー・ジンピン)指導部にとって、戦略的な価値は小さくない。

金正恩氏は当然、「血盟」の継続を望んでいるだろう。毛岸英の墓を参拝したのが最後に報じられたのは、朝鮮戦争の休戦65周年にあたる2018年7月27日だ。また墓参りする日は近いかもしれない。

李克強首相が鳴らす警鐘(7月10日)

中国経済は大丈夫か。最近の李克強(リー・クォーチャン)首相の発言を聞いていると、中国がめざすコロナ危機からの回復は決して順調でない、という思いを強くする。

「通り道でみた工場はほとんどが稼働していなかった。そうした設備を使って生産を拡大し、地元の農民工をもっと雇ってもらいたい」。李氏は6日、視察先の貴州省でこう訴えた。

わざわざ「工場は稼働していなかった」と言及するところが李氏流だ。あえて現場の苦境を伝え、経済の現状に警鐘を鳴らす。共産党のおかげでうまくいっている、大丈夫だ、と自画自賛する常とう句とは一線を画す。

全国人民代表大会(全人代)に合わせて開いた5月28日の記者会見もそうだった。「中国には月収千元(約1万5000円)の人が6億人いる。中規模の都市では家さえ借りられない」。李氏が明かしたのは、習近平(シー・ジンピン)国家主席からすれば表に出したくなかった数字だろう。

中国共産党は2020年までに、そこそこゆとりのある「小康社会」を実現する目標を掲げる。なのに、都市部で家を借りられない人が6億人もいるとしたら、とても目標の達成どころではない。

李氏は同じ記者会見で、雇用の受け皿をつくり出すために「露店経済」を後押しする考えも示した。道ばたで食べ物や雑貨を売るあの露店だ。

露店は都市の環境や景観を壊すとして、当局がこれまで取り締まってきた経緯がある。李氏の発言は、政府の方針転換に聞こえた。庶民が露店の復活を喜ぶ一方、そこまでしなければならないほど雇用の状況は悪いのか、という懸念の声も上がった。

中国人の商魂はたくましい。李氏の発言後、北京の中心部にある私のマンションのそばには、中国風のお好み焼きを売る露店が現れた。かつて北京のにぎわいを象徴した露店経済の復活か。そう思いきや、長続きはしなかった。

北京市共産党委員会の機関紙、北京日報が6月7日付で「露店経済は北京にふさわしくない」と題する評論を掲載したのだ。私の自宅のそばに現れた露店はたちまち消えた。

地下道などで、果物や雑貨を売る露店はたまに見かける。ただ、当局の取り締まりを気にしているのか、いつでも逃げられるように店構えはどれも小ぶりだ。

政権内には、経済の不振を率直に語る李氏を快く思わない人が多いのだろう。北京での露店騒動はそれを物語る。

当の李氏は7月6日、水害に襲われた貴州省の村を訪れ、被災者を見舞った。中国のSNS(交流サイト)上には、革靴が泥だらけになっても被災地に入っていく李氏の姿をとらえた映像が流れている。「庶民派」李氏のイメージが定着しつつある。

現代の科挙と王岐山氏(7月8日)

中国全土で7日、全国統一の大学入試試験「高考(Gaokao)」が始まった。3~4日間にわたる試験はその過酷さから、清末の1905年まで約1300年続いた官吏登用試験になぞらえて「現代の科挙」とも呼ばれる。

初日の7日朝、会場の一つである北京三十五中を訪ねると、正門の前で多くの保護者が受験生を励ましていた。「落ち着くのよ。どんな結果になっても構わないからね」「お母さん、ここで待たなくていいから」。ジャージー姿の女子生徒は、少し緊張した面持ちで会場に入っていった。

例年であれば、高考は6月に実施される。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響で1カ月遅れとなった。会場の入り口では念入りな体温チェックがあり、万一に備えて白衣を着た医療関係者が待機する。「密」を避けるために、一教室あたりの受験生は20人と、通常より10人少ない。いつもとかなり違う高考だ。

1950年代に始まった高考は、中国の激しい競争社会を象徴する。結果によって入れる大学が決まり、その後の人生を大きく左右するからだ。中国教育省によると、今年は全国40万カ所に設けられた会場で、前年より約40万人多い1071万人が受験している。

北京三十五中は、高考の会場としては大きな方だ。北京屈指の名門校で、多くの著名人を輩出している。その一人が王岐山(ワン・チーシャン)国家副主席だ。習近平(シー・ジンピン)国家主席の盟友として知られ、中国政治を動かすキーパーソンの一人として注目を集める。

1973年に西北大学の歴史学部に入学した王氏は、高考を受けていない。文化大革命で社会が大混乱に陥った66年から約10年間、高考は中止になったからだ。

「知識青年の再教育」として陝西省延安の貧しい村に送り込まれた王氏は、そこでおよそ2年間をすごす。近くの村には王氏より5歳若い習氏もいた。のちに王氏が西北大、習氏が清華大への入学を許されたのは、知識青年としての仕事ぶりを認められたからだ。

文革終了後の77年に、高考の再開を決めたのは最高実力者の鄧小平氏だった。翌年から始める改革開放に向け、何よりも人材の育成が重要だと考えたのだろう。再開したばかりの高考を受け、北京大に入学したのが現在の李克強(リー・クォーチャン)首相だ。

高考の再開から40年以上がたち、現代の科挙が生み出した高度な人材はいまや中国社会の中核を占める。高考を頂点とする中国の教育システムは、決して侮れない。

遠ざかるウイグルの自由(7月6日)

香港国家安全維持法が禁じるスローガンは「香港独立」だけではない。「台湾」「チベット」そして「新疆ウイグル」も、独立を訴えるビラを持っているだけで逮捕されるかもしれない。同法が処罰の対象とする「国家分裂罪」にあたるからだ。

新疆ウイグル自治区の中心都市ウルムチで、漢民族とウイグル族が激しく衝突した「ウルムチ暴動」から7月5日で11年がたった。200人にのぼる死者を出した事件の爪痕はいまも残る。多くのウイグル族が「再教育施設」に入れられ、当局の厳しい監視下に置かれたままだ。

新疆ウイグル自治区の北京事務所は、天安門広場から北西に約10キロの場所にある。

友人から「あそこのレストランに行けば、北京で一番おいしい新疆料理を食べられるよ」と教えられ、4日昼に行ってみた。

事務所の外観は宮殿ふうで豪華だ。中国共産党がいかに新疆を重視しているかがわかる。

さっそく中に入ろうとすると、正門は固く閉ざされていた。「新型コロナウイルスの影響で1月から営業を停止している。6月から再開の予定だったが、再び感染者が増えて延期になった」。入り口の事務所にいた男性が教えてくれた。「えっ、やってないの?ここのナンが食べたくてわざわざ来たのに」。自転車で現れた40代の男性は、残念そうに帰って行った。

ウイグル族が清朝の支配下に入ったのは18世紀の半ばだ。清朝の滅亡後、1933年と44年に独立を宣言したが、いずれも短命に終わった。49年に新中国が成立したあと、共産党政権の下で新疆ウイグル自治区が発足したのは、55年になってからだ。

当時1割ほどだった同自治区の人口に占める漢民族の比率は、いまや4割を超す。ウイグル族からすれば、後から来た漢民族に富を奪われたという不満はぬぐいがたい。2009年のウルムチ暴動は、そうした積年の怒りが爆発した結果だ。

新疆ウイグル自治区の北京事務所からほど近い場所に「魏公村」と呼ばれる地区がある。1980年代の半ば以降、同自治区から出稼ぎに来たウイグル族の人たちが住み着いた街だ。かつては新疆料理の小さな食堂が軒を連ねていた。

2000年代以降の再開発でマンションの建設が進み、いまは当時の面影をほとんど残していない。ここで暮らしていたウイグル族の人たちはどこに行ったのだろうか。そういえば、北京のほかの場所でも、最近はウイグル族の人をめったに見かけなくなった。

香港国家安全法の制定はウイグル族の自由をさらに狭めるのか、気になる。

朱鎔基氏の怒りが向く先(7月3日)

「朱鎔基氏が怒っている」。ネット上にそんな書き込みがあるのを見つけた。もちろん、真偽はわからない。理由も書いていない。ただ、文脈から察するに、書き込んだ人物は朱氏が香港国家安全維持法に怒っている、と言いたいようだ。

1998年から5年にわたって中国の首相を務めた朱氏は、退任する4カ月前の2002年11月に香港を訪問した。そのときの演説で、次のように語っている。

「もし香港がおかしくなったら、それはあなたたち(香港人)だけの責任ではない。われわれ(中国政府)にも責任がある。祖国に戻った香港を壊してしまえば、われわれは『民族の罪人』と呼ばれずにいられるだろうか」

香港から高度な自治を奪う国家安全法は、まさに中国が自ら香港を壊してしまう法律だ。「朱氏が怒っている」と書き込んだ人物は、そう言いたかったにちがいない。

中国を改革開放に導いた鄧小平氏に見いだされた朱氏は、1991年に上海市のトップから副首相に転じた。激しいインフレに見舞われた93年には、中国人民銀行(中央銀行)の総裁を更迭し、自ら総裁を兼務する荒技に出る。強力な金融引き締めでインフレの抑えこみに成功し、その手腕を買われて首相に上り詰めた。

朱氏が首相として取り組んだのが、国有企業の改革だ。既得権益の塊で、汚職の巣窟だった国有企業にメスを入れるのは簡単でなかった。「100の棺おけを用意しなさい。99は腐敗官僚のためで、残りの一つは私のためだ」。悲壮な決意で改革に取り組んだ朱氏の言葉は、いまも語り草になっている。

市場経済の申し子のようにいわれる朱氏だが、もともとは計画経済の司令塔だった国家計画委員会(現在の国家発展改革委員会)の出身だ。

中国が建国の父、毛沢東の号令で社会主義路線に転じた1952年。発足したばかりの同委員会に入り、経済計画づくりに携わった。

優秀なテクノクラートとして早くから頭角を現す一方、役所に近い集合居住区で20年以上すごした清廉な人柄は、人びとの尊敬を集めた。

計画経済の中枢にいたからこそ、その限界にいち早く気づいたのだろう。朱氏は改革開放が始まると、先頭にたって中国に市場経済を根づかせようとした。朱氏にとって鄧小平氏は師であり、鄧氏が「一国二制度」で英国から取り戻した香港は資本主義を学ぶための窓口だった。

今年92歳になる朱氏は、もう10年近く公の場で発言していない。習近平(シー・ジンピン)指導部が断行した香港国家安全法の制定をどうみているのか。朱氏に聞いてみたい。

99歳になった中国共産党(7月1日)

香港はきょう7月1日、英国から中国に返還されて23回目の記念日を迎えた。今年は過去22回とまったく違う意味を持つ。香港での反体制活動を禁じる中国の「香港国家安全維持法」が前日深夜に施行されたからだ。2020年7月1日は、香港が高度な自治を奪われて最初の日として、多くの人びとの記憶に刻まれるだろう。

中国の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)の常務委員会が香港国家安全法を可決したきのう(6月30日)、その舞台となった人民大会堂の前を車で通った。

すでに会議は終わっていたが、厳重な警備は変わらない。道路には「止まってはいけない。人を下ろしてはいけない」と書かれた立て札がいくつも置かれていた。向かいの天安門広場は、人影がほとんどなかった。

7月1日は中国共産党の創立記念日でもある。第1回の党大会を上海で開いてから、今年で99年だ。前日の6月30日、中国本土で香港国家安全法の成立はあまり報じられず、むしろ党の創立記念日を意識したニュースの方が目立った。

その一つが、習近平(シー・ジンピン)国家主席の演説を集めた「習近平 国政運営を語る(The governance of China)」第3巻の出版だ。同日の国営新華社によると、中国語版と英語版が同時に発売され、すでに書店に並んでいるという。

さっそく、北京を代表する繁華街、王府井の新華書店に買いに行った。「『習近平 国政運営を語る』第3巻の中英文版出版を熱烈に歓迎する」。店に入ってすぐ、そう書かれた横断幕が目に入った。お目当ての本は一つの棚全部を使って何十冊も置かれていた。

一冊の値段は80元(約1200円)。決して安くない。北京では新型コロナウイルスの「第2波」が心配されており、そもそも店内に客は少ないが、しばらく待っても習氏の本を購入したのは私だけだった。大きな棚が、どこかさみしげに見えた。

買った本の表紙をめくると、最初に現れたのは中国の正装である中山服を着た習氏の写真だった。天安門の楼上で手を振っている。おそらく19年10月1日の建国70周年に合わせて実施した軍事パレードのときに撮ったものだろう。

ふと思った。いま目にするさまざまな事象は、すべて来年7月に迎える共産党の創立100周年に向けた準備なのだ、と。国際社会の制止を振りきって強行した香港国家安全法の制定、そして習氏の権威づけ。いずれも党の100歳の誕生日まであと1年というスケジュールを考えた計算ずくの演出にちがいない。

国際社会との摩擦をいとわない中国の強硬姿勢は、これからも続くとみた方がいい。

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