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変質する鄧小平氏の遺産 北京ダイアリー(2020年6月)

中国総局長 高橋哲史

変質する鄧小平氏の遺産(6月26日)

いま、世界が最も注目する中国の役所かもしれない。香港政策を統括する「国務院(政府)香港マカオ事務弁公室」だ。

オフィスは北京の西部、各国からの要人を迎える釣魚台迎賓館の近くにある。国家統計局と同じビルに入り、荘厳で巨大な建物が多い中国の中央官庁の中ではいたって地味だ。

25日夕、その前を車で通ってみた。端午節に伴う三連休の初日で、人通りはほとんどない。明らかに当局が配置したとわかる私服姿の男性がひとり、周囲のようすに目を光らせていた。

中国の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)は28~30日に常務委員会を開き、香港国家安全維持法案を審議する。香港での反体制活動を禁じる同法案に、国際社会は強い懸念を表明している。香港マカオ事務弁公室の前にたたずむ男性は、同法案に反対して騒ぎを起こす人物がいないか監視しているのだろう。

同弁公室の前身である香港マカオ弁公室が正式に発足したのは1978年9月だ。文化大革命が終わって2年がたち、鄧小平氏はすでに最高実力者になっていた。同氏の主導で中国が改革開放に踏み出す方針は、3カ月後の78年12月に開かれた第11期中央委員会第3回全体会議(11期3中全会)で決まる。

当時、鄧氏の念頭に「香港回収」はまだなかったはずだ。これから始める改革開放に、資本主義・香港の活力をどう生かすか。香港マカオ弁公室はその戦略を立案する役所として発足した。

同弁公室の役割が大きく変わるのは、1981年前後に鄧氏が台湾統一を後回しにし、先に香港返還をめざす方針に転じてからだ。同弁公室は「一国二制度」で英国から香港を取り戻す司令塔となった。

香港返還が決まって以降、同弁公室の機能と権限は次第に小さくなる。93年には名称に「事務」が加わった。あくまで香港特別行政区政府との連絡窓口という位置づけで、トップに大物が据えられることもなかった。

それだけに、新型コロナウイルスの猛威が中国を襲っていたさなかの今年2月、同弁公室の主任に全国政治協商会議の副主席を務める夏宝龍氏が任命されたのは驚きだった。

かつて浙江省のトップを務めた夏氏は、習近平(シー・ジンピン)国家主席に近いとされる。夏氏の人事は香港国家安全法の制定をにらみ、中央が香港を「直轄統治」する意志の表れだろう。

全人代常務委が開幕する6月28日は、中国共産党が定める1840年にアヘン戦争が始まった日でもある。香港マカオ事務弁公室にほど近い軍事博物館には、香港を中国から奪ったアヘン戦争の歴史を伝えるコーナーがある。180年がたち、習指導部はいよいよ香港の直轄統治に乗り出す。

中国に不都合な事実(6月24日)

CNNやNHKなどの海外向けテレビ放送を見ていて、画面が突然真っ黒になる。中国本土に住んでいれば、それはめずらしい光景ではない。国内で見られる外国テレビ局の放送は、すべて中国当局の監視下にあるからだ。

共産党にとって不都合な内容があれば、当局はただちに放送を遮断し、国内で見られないようにする。その頻度は新型コロナウイルスの猛威が世界を襲ってから、以前より多くなったと感じる。

昨日(23日)、CNNを見ていたときは、トランプ米大統領が20日の選挙集会で新型コロナを「カン・フルー(Kung Flu)」と呼び、マクナニー大統領報道官がホワイトハウスの記者会見場で何ごとかを話し始めたところで画面が真っ黒になった。

「カン・フルー」とは、中国系の人たちへの差別的な呼称である「カンフー」をもじったトランプ氏の造語だ。それに対してマクナニー氏はどんな釈明をしたのか。気になって調べてみると、中国が絶対に受け入れられない内容だった。「(大統領の発言は)ウイルスが中国から来たと指摘したものだ。中国に責任を負わせることに何ら後悔を感じない」。

23日に発売となったボルトン前米大統領補佐官の回顧録に関するニュースも、頻繁に画面が黒くなるのは少し意外だった。トランプ氏に大統領の資質はないと断じるボルトン氏の回顧録は、中国にとって都合のよい内容だと思ったからだ。

この回顧録の出版を伝えた同日夜のNHKニュースは、2019年6月の米中首脳会談でトランプ氏が、習近平(シー・ジンピン)国家主席に米国産農産品の購入を増やすよう懇願したところで画面が急に黒くなった。

習氏は何を語ったのか。ボルトン氏の回顧録によると、トランプ氏の再選を念頭に「さらに6年ともに働きたい」と述べたという。習氏の国家主席として2期目の任期は23年3月に切れる。18年から「さらに6年」となると、習氏は自身の3期目を前提にトランプ氏の再選を願ったことになる。事実なら、最高指導者が知られたくない秘密だろう。

中国の国民は共産党に都合のわるい事実をいっさい知らされない。言論や報道の自由がある民主主義国では考えられない日常が、ここでは当たり前のように続く。

香港国家安全維持法の制定で、こうした日常は自由を謳歌してきた香港にも浸透していくのだろうか。だとすれば、事態は深刻だ。

「第2波」と戦う最前線(6月22日)

20日午後、北京市の郊外にある地壇医院の周辺はひっそりと静まりかえっていた。感染症専門の同院は、18日から外来患者を受け付けていない。再び増え始めた新型コロナウイルスの感染者を隔離するためだ。

1月半ばに北京で最初の感染者が運び込まれて以来、地壇医院は首都をウイルスから守る戦いの最前線となってきた。北京で新型コロナに感染した人の大半はここで治療を受ける。「この戦いにわれわれは絶対に勝てる!」。習近平(シー・ジンピン)国家主席は2月10日に視察し、医療従事者らを激励した。

北京で「最後」になるはずだった患者が、地壇医院を退院したのは6月8日だ。感染者が「ゼロ」になったのもつかの間、わずか3日後には市内最大の農産品卸売市場で買い物をした男性がここに運び込まれた。それ以降、北京で見つかった200人以上の新たな感染者は全員が地壇医院で治療を受けている。

地壇医院がいまの場所とは違う市中心部に開業したのは1946年だ。50年代には名前の由来ともなる地壇公園のそばに病棟を建てた。

その名が一躍有名になったのは、2003年に北京で重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行したときだ。SARS患者の隔離施設に指定され、一時は100メートル以内に近づくことすらできなかった。

当時を覚えている人は多い。「あそこだよ」。地壇公園の西門で道に迷っていると、近所の人がすぐに教えてくれた。かつての地壇医院はいま、老人ホームへの衣替えが進む。

北京郊外に移転したのは08年だ。SARSの教訓を基に、最新鋭の隔離施設を備えた。北京で新型コロナの「第1波」を抑え込められたのは、地壇医院の貢献が大きかったと言っていい。

しかし、新たな感染者の発生は止められなかった。北京は「第2波」の襲来に身構える。この十日ほどで、200万人を超す市民が当局の指示でPCR検査を受けた。患者が急増すれば、地壇医院だけでは収容しきれなくなるかもしれない。市内のほかの病院も、すでに臨戦態勢に入っている。

21日、習近平指導部は6月28~30日に全国人民代表大会(全人代)の常務委員会を開くと決めた。国際社会の懸念に耳を貸さず、香港での反体制活動を禁じる国家安全法の採決に踏み切る構えだ。7月1日の香港返還23周年、そして中国共産党の創立99周年を前に、同法の成立を急いでいるようにみえる。

それまでに「第2波」をなんとしても封じ込めようとしているのだろう。メンツをかけた戦いが続く。

「爆満」のPCR検査(6月19日)

いま天安門広場の東側にある国家博物館の入場券をネットで予約しようとすると、最初に次の表示が出てくる。

「あなたは新型コロナウイルスのPCR検査を受けて陰性でしたか?」

「はい」をチェックしなければ、具体的な予約の手続きに進めない。「PCR検査を入館の条件とする博物館は、世界でここだけではないか」。私の中国人の友人は少しあきれ顔でそう語った。

先週末に北京最大の農産品卸売市場で新型コロナの集団感染が起きてから、市内では過剰にも思えるくらいPCR検査を求められる場面が増えている。問題の市場を訪れた人はもちろん、北京の市外に出ようとする人も、PCR検査を受けなければならない。

北京市トップの蔡奇・同市共産党委員会書記が主宰した17日の対策会議は「PCR検査の能力と範囲を拡大し、検査を受けるべき人にはすぐに受けさせよ」と指示した。

習近平(シー・ジンピン)国家主席の腹心として知られる蔡氏だが、首都・北京で集団感染を起こしてしまった焦りは隠せない。市民にPCR検査を受けるよう大号令をかけた結果、6月13日以降の1週間足らずで受検者はおよそ40万人に達した。北京の人口(約2100万人)の実に2%だ。

当然、市内のあちこちに設けられた検査場は、どこも人であふれんばかりになる。押し合いへし合いの騒ぎは、17日の日記で紹介した通りだ。地元紙はそのようすを「爆満」と形容した。「大入り満員」という意味だ。

さすがに、このままでは感染がかえって拡大してしまうと心配したのだろう。18日午後、検査場の一つである天壇体育活動センターに行ってみると、2日前に見たような密集は発生していなかった。「検査が必要との通知を受け取っていない人は、入っちゃダメだよ!」。係員の男性が拡声器を手に大声で叫んでいた。当局が指示した人以外は検査を受けさせないよう指導が入ったにちがいない。

検査場を取材したついでに、人民大会堂の前を車で通った。ちょうど全国人民代表大会(全人代)の常務委員会が始まったばかりだ。国営の新華社通信はこの日、香港での反体制活動を禁じる国家安全法の審議が始まったと伝えた。

人民大会堂と国家博物館の間に広がる天安門広場には、武装警察官のほかに人影はない。その光景は北京がウイルスの猛威におびえていた4カ月前と同じだ。

習指導部は世界に先駆けて新型コロナとの戦いに勝利したはずだった。その余勢を駆って香港国家安全法の制定に踏み出したのだとすれば、「戦時体制」への逆戻りはやはり政権の非常事態である。

首都防衛の混乱と不信(6月17日)

北京を代表する繁華街の王府井に近い東単には、市民がバスケットボールやテニスを楽しめる運動場がある。16日午後、そこを取り囲むように長蛇の列ができていた。

押し合いへし合いで、口げんかをする人たちもいる。いったい何が起きたのか。「核酸検測よ」。近くを歩いていた若い女性が教えてくれた。新型コロナウイルスに感染しているかどうかを調べるPCR検査だ。

市内最大の農産品卸売市場「新発地」で新型コロナの集団感染が発生し、首都・北京は再び「戦時体制」に入っている。11日以降に判明した感染者は100人を突破した。感染拡大の「第2波」を警戒する市当局は、5月30日以降に新発地を訪れた約20万人を洗い出し、PCR検査を受けるよう命じている。

市内のあちこちに設置された検査場の一つが、東単の運動場だ。しかし、これだけ多くの人が集まれば密集ができ、かえって感染の拡大につながるのではないか。一度に20万人もの人を検査場に誘導するやり方は、やはり無理があるように思える。

習近平(シー・ジンピン)国家主席は3月半ば、爆発的な感染が最初に始まった湖北省の武漢市を自ら訪れ「ウイルスの拡散を基本的に抑え込んだ」と宣言した。5月下旬には延期していた全国人民代表大会(全人代)の開催にこぎ着け、一党支配の優位を世界にアピールしたばかりだ。

それなのに、中国共産党の中枢がある北京で集団感染が起きた。習氏のメンツは丸つぶれだ。習氏の腹心として知られる北京市トップの蔡奇・同市共産党委員会書記(党政治局員)は14日、問題の市場がある豊台区の副区長らをただちに更迭した。蔡氏の焦りが、現場をむちゃなPCR検査に駆り立てているような気もする。

蔡氏は習氏が福建省や浙江省で勤務したときの部下だ。2017年5月、党の中央委員でも中央委員候補でもない「ひら党員」から、いきなり北京市のトップに抜てきされて話題になった。

しかし、市民の評判は芳しくない。街の美観を守るためとして、ビルやレストランの看板をすべて外すように命じたり、低所得者の住居を強制撤去したりして、厳しい批判を受けた。18年春には、香港紙が交代説を流したほどだ。

北京市は16日深夜になって、4段階ある新型コロナへの警戒レベルを2番目に高い「2級」に引き上げた。ようやく日常を取り戻したばかりだっただけに、市民の不信感は強い。蔡氏に対する陰口が、また聞こえてくるようになった。

習氏誕生日、厳戒の北京(6月15日)

きょう6月15日は、習近平(シー・ジンピン)国家主席の67回目の誕生日だ。

中国ではふつう、指導者の誕生日を公表しない。共産党の公式文書には、習氏の出生時期が「1953年6月」とだけある。

習氏が6月15日生まれだと公になったのは、1年前のこの日に訪問先のタジキスタンで、ロシアのプーチン大統領から誕生日のお祝いにアイスクリームを贈られたからだ。習氏は笑顔で謝意を伝え、中国茶をお返ししたという。

副首相を務めた習仲勲氏を父に持つ習近平氏は、幼いころから党の指導者とその家族が住む北京の中南海で育った。小中学生のときには、中南海から北西におよそ10キロ離れた北京市八一学校に通った。「紅二代」と呼ばれる革命幹部の子弟が多く学んだ名門校だ。

八一学校はいまも北京大学や中国人民大学などに近い文教地区の一角にある。習氏は最高指導者になったあと、2016年9月にここを訪れた。母校がよほど懐かしかったのだろう。校庭にも足を運び、子どもたちがサッカーの練習をするようすを熱心に見学した。

八一学校ですごした幸せな日々は、その後に訪れる苦難の前ぶれだったかもしれない。1960年代に文化大革命の嵐が吹き荒れるなか、父の仲勲氏が失脚する。69年1月には15歳だった習近平氏も「知識青年の再教育」のためとして、陝西省延安の梁家河に送り込まれた。黄土高原の険しい谷あいにある小さな村である。

極貧にあえぐ村人たちと過ごした7年間が、習氏の運命を変えた。習氏はしばしば「ここで人生の目標が固まった」と振り返る。中国を強国にする目標である。

中国共産党の頂点に立った習氏が、67歳の誕生日を迎えた意味は小さくない。党の幹部には5年に1度の党大会の際に、67歳以下なら要職に残り、68歳以上なら引退する「七上八下」と呼ばれる不文律がある。習氏は2022年に開く次の党大会で69歳になっており、この決まりに従えば引退しなければならない。

2年前の憲法改正で国家主席の任期制限を撤廃し、「定年延長」の布石は打っている。しかし、次の党大会を越えて習氏が最高指導者の地位にとどまり続けられる保証はまだない。

コロナ危機の克服が最低条件になるだろう。折しも、北京市の農水産品市場で新型コロナウイルスの集団感染が発生した。先週末から首都・北京は、感染の第2波を警戒する「非常時」に入っている。

習氏の新型コロナとの闘いは終わっていない。

もう一人の戦狼外交官(6月12日)

最近また笑わなくなった、と話題になっている。中国外務省の華春瑩報道局長だ。

11日の記者会見でも、厳しい表情を崩さなかった。「米国は宗教問題を利用して中国の内政に干渉するのをやめるべきだ」。中国での宗教弾圧を指摘した米国務省の報告書について、ポンペオ米国務長官の名前まで出して痛烈に批判した。

2012年から中国外務省の報道官を務める華氏は、もともと硬い表情で有名だ。その華氏が、17年12月の記者会見で声を上げて笑う一幕があった。日本生まれのパンダ「シャンシャン(香香)」を、中国語で発音が似ている杉山晋輔外務次官(当時)の姓と聞き間違え、まったく的外れの答えをしてしまったときだ。

華氏の笑顔は中国のSNS(交流サイト)上でたちまち話題になり、堅物のイメージが一変した。18年1月には、訪中した当時の河野太郎外相がツイッターに華氏とのツーショット写真を投稿し、親しみやすい中国の外交官として日本でも知名度が上がった。

華氏が再び笑わなくなったのは、新型コロナウイルスの対応をめぐって米国との関係が険悪になったことと無関係ではないだろう。「戦狼(せんろう)外交官」の異名を取る趙立堅副報道局長とともに、ツイッターも駆使して米国の「理不尽」を世界に訴える役回りに笑顔は似合わない。

一方で華氏は、これまで日本には好意的な発言を繰り返してきた。「日本政府や社会の各層は中国に多大な同情と理解、支持を寄せてくれている」。2月初旬にネット上で開いた記者会見では、まるで米国に当てつけるように日本を称賛した。4月に予定していた習近平(シー・ジンピン)国家主席の訪日に向け、日本に気を使っていた面もあるだろう。

しかし、習氏の訪日が延期になり、日中関係にはすきま風が吹き始めている。5月上旬には中国公船が尖閣諸島の周辺で日本の漁船を追尾した。安倍晋三首相が10日の衆院予算委員会で中国が制定を急ぐ香港国家安全法に懸念を示すと、華氏は同じ日の記者会見ですぐに「(香港は)完全に中国の内政に属し、いかなる外国も干渉の権利はない」と反論した。

3人いた中国外務省の報道官はいま2人しかいない。ときにユーモアを交えて記者の質問に答えてきた耿爽氏は、5日の記者会見を最後に異動した。日々の記者会見に華氏と趙氏が交代で立つようになり、中国の対外発信は「戦狼」色が強くなっている。

バイデン氏の写真の運命(6月10日)

11月の米大統領選に向け、民主党の候補指名を固めたバイデン前副大統領が勢いづいている。白人警官による黒人暴行死に抗議するデモが全米に広がり、再選をめざすトランプ大統領には逆風が吹く。

「バイデン氏優勢」のニュースをみて、またあの店に行きたくなった。北京の有名な観光地、鼓楼の隣にある「姚記炒肝店」である。

以前も紹介したように、2011年8月に副大統領として北京を訪問したバイデン氏は、この店にふらっと立ち寄って話題になった。北京独特の「炒肝」と呼ばれる豚モツのしょうゆ煮込みで有名な店だ。

私が前回3月初めにここを訪れたときは、新型コロナウイルスの感染対策で店内の営業を停止しており、持ち帰りだけだった。いまは以前と同じように店の中で食事ができる。さっそく、ふつう盛りで一杯9元(約140円)の炒肝を食べてみた。

「あまり具が入ってないね」。隣のテーブルで同じ炒肝を食べていた男性が急に話しかけてきた。内モンゴル自治区から来て、家族と一緒に北京を見物しているという。有名店と聞いて来てみたが、少し期待外れだったようだ。

せっかくなので「以前、この店にバイデンさんが来たのは知ってるか」と尋ねてみた。すると、ちょっと意外な答えが返ってきた。「知ってるよ。彼はいまのトランプ大統領より戦争好きなんだろ?中国にとっては、彼が大統領にならない方がいいな」

別の人物とごっちゃになっているのではないかという気もしたが、ふつうの中国人はみな米国人に対して同じような印象を持っているのかもしれない。戦争好きで、中国嫌い。だれが大統領になってもどうせ米中関係はよくならない。そんな思いは多くの中国人の最大公約数になりつつある。

店内で、バイデン氏の写真は見つけられなかった。だいぶ前に来たときはあったはずだ。店員に聞いてみると、写真は数年前に開いた支店に移したという。

東に2キロメートルほど離れたその店に行くと、確かにバイデン氏の写真が掲げられていた。店員や客、孫娘らといっしょに笑顔で写真に収まったバイデン氏は、いまよりかなり若くみえる。国家副主席だった習近平(シー・ジンピン)氏と親交を深めたのも、この訪中のときだ。

当時はうまくいっていた米中関係が、トランプ氏の下で戦争を始めるのではないかと思えるほど険悪になった。米国内の厳しい対中感情を意識して、バイデン氏も最近ではしばしば中国に批判的な言葉を口にする。

この店からバイデン氏の写真がなくなる日は近いのか。あるいはバイデン氏の側が写真を撤去するよう求めるのか。同氏が注文したのと同じジャージャー麺を食べながら、さまざまな想像が膨らんだ。

もう一つの「盧溝橋」(6月8日)

北京の盧溝橋は知っていても、「八里橋」を知る人は少ないだろう。1860年9月、皇帝の住まいだった故宮から東におよそ20キロ離れたこの橋の周辺で、当時の清軍と英仏連合軍の大規模な戦闘があった。

1856年に始まった第2次アヘン戦争(アロー戦争)で、清朝が北京を守るために最後の防衛ラインを敷いた場所だ。しかし、最新鋭の兵器で固めた英仏連合軍の攻撃に、伝統的な騎馬隊を中心とする清軍はなすすべがなかった。わずか数時間の戦闘で清軍は敗走し、英仏連合軍はほぼ無傷のまま北京に攻め込んだ。勢いづいた兵士たちが、皇帝の離宮だった円明園を破壊し尽くした史実は、歴史の教科書が記す通りである。

明の時代の1446年に造られた八里橋は正式な名前を「永通橋」といい、いまも創建時の美しい外観を残す。数年前まで車も通れたが、すぐそばに新しい橋ができたのを機に現役を引退した。5月末に訪れると、ちょうど修繕作業のさなかで、橋の東半分は壁で仕切られて見られなかった。

160年前の激しい戦闘を思い出させるものは、何も残っていない。橋のたもとに掲げられた説明文には「中国の歴史上著名な八里橋の戦いはここで発生した。この橋は外国民族の侵略に抵抗した近代中国の貴重な証人である」とだけ添えられていた。

「外国民族」が英仏連合軍であると触れていないのは、ちょっと意外な気がした。1937年7月に日中戦争の発端となる発砲事件が起きた盧溝橋のそばに、愛国教育の拠点として抗日戦争記念館まであるのとは大きな違いだ。

習近平(シー・ジンピン)指導部が香港での反体制活動を禁じる国家安全法の制定を急ぐなか、香港の旧宗主国である英国は中国への批判を強めている。ジョンソン英首相は3日、英紙タイムズへの寄稿で、中国政府が国家安全法を撤回しなければ香港住民の最大285万人を対象に英国市民権の取得に道を開く、と表明した。中国側が「中国の内政への乱暴な干渉」と激しく反発したのは言うまでもない。

日中関係を見るまでもなく、中国は外交の武器にしばしば「歴史」を使ってきた。香港をアヘン戦争で奪った英国が、国家安全法に口出しする権利はない。中国はそうした論法で英国への批判を強めるにちがいない。

第2次アヘン戦争に敗れた清は、英国に香港島の対岸にある九龍半島を新たに割譲した。清の敗北を決定的にした八里橋の戦いが起きたこの場所は、いつか愛国教育の拠点に変わるのだろうか。修繕中の八里橋をみて、そんな予感がした。

趙紫陽氏の火は消えない(6月5日)

毎年、天安門事件が起きた6月4日になると、厳戒下に置かれるのは広場の周辺だけではない。学生らの民主化運動に理解を示し、武力での鎮圧に反対して失脚した故趙紫陽・元共産党総書記とゆかりのある場所にも、多くの私服警官が配備される。

趙氏の自宅は天安門広場からそれほど離れていない胡同の中にある。4日午後に近くまで行ってみると、周辺には多くの警察車両が止まっていた。新型コロナウイルス対策もあって胡同全体が封鎖されており、中のようすはうかがい知れない。

中国当局が2005年1月に亡くなった趙氏の自宅を監視するのは、いまも趙氏を慕い、民主化を支持した指導者のシンボルと考える人が少なくないからだ。

事件が起きる2週間前の1989年5月19日未明、趙氏は天安門広場に集まっていた学生らの前に姿を現した。「来るのが遅すぎた。申し訳ない」。拡声器を手にこう語った趙氏の目には、涙が浮かんでいた。この日を最後に公の場から姿を消した趙氏は、亡くなるまでのおよそ16年間、長い自宅軟禁の生活に耐えた。

趙氏の葬儀に参列した40歳代後半の男性は、そのときに遺族からもらった趙氏がにこやかに笑う写真のカードを、いまも大切に持っている。趙氏は軟禁生活を過ごした中国伝統の家屋である四合院の自宅に、よほど愛着があったのだろう。カードの裏側にはその写真がうっすらと印刷されていた。

共産党は趙氏の墓が民主派の「聖地」になるのを恐れたにちがいない。遺骨の埋葬を許可したのは、亡くなってから14年以上たった2019年10月だった。趙氏はいま、党幹部専用の「八宝山革命公墓」でなく、北京の中心部から約60キロ離れた一般の墓地に妻の梁伯琪さんといっしょに眠る。

今年の6月4日、北京は快晴だった。

天安門広場の周辺に、例年と比べても警官や武装警察の車両が多く配置されていると感じたのは、決して気のせいではないだろう。コロナ危機で人びとの不満はくすぶっており、それはいつ爆発してもおかしくない。香港での反体制活動を禁じる国家安全法の強行には、国際社会から非難の声がやまない。

世界に先駆けてウイルスの感染拡大を抑え込んだ習近平(シー・ジンピン)指導部は、一党支配への自信を深めているようにみえる。しかし、天安門広場に敷かれた厳戒態勢は、その裏に潜む不安の表れであり、趙氏がともした民主の火がまだ消えていない象徴でもある。

31回目の「六四」と武警(6月3日)

「六四」。人民解放軍が学生らの民主化運動を鎮圧した1989年6月4日の天安門事件を、中国の人たちはその日付にちなんでこう呼ぶ。新型コロナ禍にある31回目の今年、北京はいつもより張り詰めた空気のなかで「六四」を迎える。

2日午後、天安門広場は封鎖されていた。理由はわからない。新型コロナウイルスの感染拡大がひとまず収まり、5月に入って観光客が増えていただけに、広大な空間はいっそう不気味な静けさに包まれているように感じた。

これまで6月4日の前後に、人影がなくなった天安門広場を見た記憶はない。いつもはふだんと同じように観光客でごった返している。中国では学校で「六四」を教えないし、インターネットで検索もできない。30代以下の若者に「六四」の話をしても、ほとんどは首をかしげるのが現実だ。観光客でいっぱいになった天安門広場は、事件の風化に成功した当局の自信の表れだと思ってきた。

それだけに、今年の光景は異様だ。新型コロナの影響で中国経済は1~3月にマイナス成長に沈み、人びとの不満はくすぶっている。習近平(シー・ジンピン)指導部は先の全国人民代表大会(全人代)で香港での反体制活動を禁じる国家安全法の制定を決め、香港の民主派は反発を強めている。人けのなくなった天安門広場は「何かが起こるのではないか」と心配する当局の不安の表れかもしれない。

広場のあちこちには「武警」と書かれた装甲車両が配置されている。武警とは、軍の傘下にある武装警察部隊の略称だ。

天安門事件の当時も武警はあったが、装備は貧弱だった。事件の直後に、ある中国研究者から聞いた言葉が忘れられない。「武警に日本の機動隊と同じような放水車や催涙弾があれば、悲劇は起こらなかった」。党指導部が武警では学生らのデモを押さえ込めないと判断し、いきなり軍を投入したから、多くの犠牲者が出たという見方だ。

実際、天安門事件を機に武警の強化が進んだ。昨年夏に香港の若者たちが過激な抗議活動を繰り広げた際、中国メディアは武警が広東省の深圳で、放水車や催涙弾を使ってデモ隊を制圧する訓練のようすをさかんに流した。

米国で白人警官の暴行による黒人死亡事件をきっかけに抗議デモが広がり、トランプ米大統領は軍の投入すらちらつかせる。「どうして自国の抗議活動への参加者を銃で脅かすのか」。戦狼(せんろう)外交官として知られる中国外務省の趙立堅副報道局長は、鬼の首を取ったようにトランプ氏を批判する。それは「中国なら武警がもっとうまくデモ隊を制圧する」と言っているようにも聞こえた。

抗議活動を「国内テロ行為」と決めつけ、徹底的な取り締まりを宣言したトランプ氏は、習指導部が香港を強権的に支配する格好の口実を与えてしまった。

「戦狼」外交官の源流(6月1日)

「戦狼(せんろう)」外交官がほえている。米国への過激な言動で知られる中国外務省の趙立堅副報道局長だ。

5月28日、トランプ米大統領が香港国家安全法をめぐって中国に対抗措置を打ち出す方針を表明すると、趙氏はすぐさま翌日の記者会見で反撃に出た。「米国はただちに過ちを正し、中国の内政に干渉するのをやめよ」。その発言を自身のツイッターにアップし、映像まで付けた。戦意をかき立てるような勇ましい音楽を背景に流す念の入れようだ。

政治家でない職業外交官が、これほど注目されることがかつてあっただろうか。

「戦狼」は、海外でとらわれた同胞を救い出す中国の特殊部隊員を描いたアクション映画だ。シルベスター・スタローンが主演した米映画にどことなく似ていたため「中国版ランボー」と呼ばれ、大ヒットした。

3月に「米軍がウイルスを武漢に持ち込んだのかもしれない」とツイッターに書き込み物議をかもした趙氏は、中国国内でも知名度が上がっている。舌鋒(ぜっぽう)鋭く米国を批判する姿は、国民の目に頼もしく映るのだろう。習近平(シー・ジンピン)指導部も激しさを増す米国との戦いのスポークスマンとして、趙氏を国内外に売り出そうとしているようにみえる。

しかし、それは外交官の本来の仕事だろうか。政治家が表で他国を批判しても、職業外交官はその黒子として水面下で妥協点を探る。そうした役割分担がなければ、国と国との関係はもつれ、外交は成り立たない。

そもそも、中国における「外交」の歴史は浅い。

中華思想の上に立つ歴代王朝は中国以外の国を国と認めず、主権国家が対等な立場でつき合う外交という概念を持たなかった。清朝が外務省にあたる「総理各国事務衙門」を初めて設置したのは、第2次アヘン戦争(アロー号戦争)で英仏に敗れた直後の1861年だ。列強の要求を受け入れたもので、中国にとって「外交」の始まりは屈辱の歴史の一部でもある。

週末に、故宮から東に2キロほどの総理各国事務衙門があった場所に行ってみた。残念ながら、そこにつながる道はまだ新型コロナ対策で封鎖されており、住民でない私が通るのは許されなかった。

仕方なく近くを散歩していると、すぐ南側に中国外交の歴史をたどるうえでもう一つ重要な場所があるのを知った。1949年秋に発足した中華人民共和国の外務省が最初に事務所を構えた場所だ。

かつて清朝の迎賓館だったその建物はもうない。当時の立派な門だけが残っている。初代外相を兼務した周恩来首相はここで、どうすれば誕生したばかりの新中国を世界に認めさせられるか、構想を練ったにちがいない。

周氏の時代には想像できなかったほど中国は大きくなり、再び世界史の中心に躍り出ようとしている。もし「外交」がなかった時代に戻ろうとしているのだとすれば、危うい。

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