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古い自分にさようなら 学習院大学教授・伊藤元重さん

【NIKKEI The STYLE 2019年11月24日付「My Story」を再掲】

いとう・もとしげ 1951年、静岡県生まれ。東京大学経済学部を卒業し、米ロチェスター大学大学院で博士号を取得。東大教授を経て2016年から現職。経済財政諮問会議の民間議員をはじめ、これまで務めた政府関連の役職は40近い。専門は国際経済学。「人と人とが協力すれば(1+1)、合計以上の力(3?)を出せる」が持論だ(東京・大手町で)

海外の学術誌に多くの論文が掲載され、高い評価を得ていた30代半ば。経済学者の伊藤元重さんは突然、研究室の外に飛び出し「ウオーキングエコノミスト」に変身した。それは研究者としての限界を悟り、戦いの場を移すときが来たと判断したためだった。

書斎や研究室にこもって黙々と研究活動にいそしむのが学者一般のイメージだとすると、伊藤さんは対極ともいえる生活を送っている。

大学の講義の合間を縫って政府の委員会や国際会議に出席し、各地に講演に出かける。内外の工場や流通の現場を回って担当者の話を聞く。パソコンを常に携え、喫茶店や屋外で仕事をこなす。地下鉄の駅のベンチで、15分間でコラムを1本仕上げたこともある。

そんな姿を見た出版社の編集者が2000年頃、「ウオーキングエコノミスト」と命名して著作の帯に付けた。以来、この呼び名が浸透している。「現場をよく歩いているという意味なら、悪くないニックネームでしょう」

周囲の俊才が手本 負けじと米へ留学

高校を卒業するまで静岡市で育った。好奇心が旺盛で、読書好き。県立の名門高校に通ったが「地方都市らしいというか、受験受験という感じでもなくのんびりしたものでした」。卒業後、東京大学に入学して首都圏や関西出身の同級生たちと話をすると「情報の格差に驚きました。同級生なのに私が知らないことをたくさん知っていて」。

故郷で自由な空気を吸って生きてきたためか、何でも自分で決めて行動する習慣が染みついていた。大学の授業にはあまり出席せず、話題になっている経済学の本を探しては喫茶店で読みふけった。「講義をじっと聞いているよりも、刺激が大きかった」。気になる職業は外交官や弁護士。「自分は一般企業のサラリーマンには向いていないのかな」との思いを持ち続け、いつしか学者の道を志すようになった。

一匹オオカミにはならなかった。当時の経済学部には宇沢弘文さんや根岸隆さんら世界最高レベルといってよい教授陣がそろい、また自分と同様に学者を目指す優れた学生たちがいた。周囲の俊才たちがよきロールモデル(手本)になってくれた。身の回りに人生のロールモデルを見つけ、自身を鼓舞する旅はこの頃から続いている。

留学したのも、同級生の影響だ。「東大大学院に合格し、やる気になっていたら、もう米国留学を決めていた同級生がいてショックを受けて」自分も米ロチェスター大学行きを決める。

夏休みを利用して英国経由で行くことにし、恩師が在籍していたロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに立ち寄る。ここで出会ったのが、森嶋通夫さんだった。日本を代表する理論経済学者で、日本人がいまだ受賞していないノーベル経済学賞の有力候補ともされた雲の上の人だ。

米国で最先端の勉強をするぞと意気込む一学生に、森嶋さんが貴重な言葉を投げかけてくれた。「それで一生やっていけると思ったら甘いよ」

森嶋さんが説いたのは「人生3段ロケット論」だ。研究者としてのエネルギーを若いころと同じように生涯持ち続けるのは難しい。人生の中で何回か古いロケットを切り離し、新しいロケットに点火して生産性を維持せよという。「すぐに何かを変えたわけではないですが、それからずっと頭の片隅には森嶋先生の言葉があった。それほどインパクトある言葉でした」

研究の限界を感じ 生きた経済を探求

留学からの帰国後は理論研究に没頭した。共同研究も多く、国内外のパートナーとやり取りをしながら何年間もかけて論文を仕上げていく。「飽きっぽい性格の自分にとっては辛くてストレスが多い作業でした」。ただ、あのとき森嶋さんが付け加えた助言が支えになった。ロケットを切り離す前提として、まず研究者として認めてもらうこと。そのために、5本程度は海外の一流学術誌に論文が掲載されること。

努力が実り、1980年代半ばまでに国際貿易・経済の理論研究が10本以上、一流誌に載った。30代半ばにして目標を達成した満足感に浸る一方、研究者としての限界も感じ始めていた。

「新しいアイデアをひらめくのは得意なのですが、一つのテーマを粘り強く追い続けるのは苦手」。ちょうどそのとき、先輩の誘いに応じて通商問題の現状分析に重きを置いた共同研究に取り組んでいた。理論研究とは異なる世界に接し「生きた経済をもっと知りたい」との欲求が強まっていた。

40代にさしかかる頃、思い切って「最初のロケットを切り離した」。現場を歩く「ウオーキングエコノミスト」への変身だ。フィリピンの縫製工場で同一柄のパジャマの大量生産を見て、低価格アパレルの台頭を予測。伊勢丹の店長に消費者を動かす売り場のツボを聞く。ダイエーの中内功さん、イオンの岡田卓也さんら名経営者とも交流した。

新聞のコラムを担当したり、学生向けの教科書を執筆したりと活動の幅を広げる。「アカデミックな研究者としてのピークは過ぎたと自ら認めるのは寂しくはあった。でも、自分で切り替えたのだと思えば、納得できました」

98年に内閣の経済戦略会議の委員になってからは、温和で社交的な人柄もあって政府の役職で引く手あまたに。不動産の証券化、経済連携協定の締結、IT(情報技術)のインフラ整備といった政策課題の実現に汗をかく。頭にたたき込まれた経済学の体系は、外で戦う武器となった。

変身から30年が過ぎた今、もう1段のロケット切り離しを探っている。数年前に留学先だったロチェスター大を訪れ、初老の先生が静かに本を読みふける姿に共感した。「徐々に外の仕事を減らし、ゆっくりと本を読みながら、長く関わってきた通商問題をテーマに集大成本を書きたい」。今のロールモデルは、同大で朝から晩まで本を読み、研究に没頭していた過去の自分だ。

人生100年時代と呼ばれる現在、単線型の人生設計は難しい。「中高年でロケットを切り離すには勇気が要りますが、切り離してよかったと思うタイミングが誰にでもあるはずです」

【My Charge】国際会議の合間に散歩 制約ない一人の時間満喫
 国際会議への出席や海外の大学での研究などで、年に10回ほど様々な国を訪ねている。パリ、キャンベラ、ミュンヘンは長期滞在した経験もあり「訪問すると懐かしい気持ちになります」。
 最近、初訪問したクロアチアのザグレブ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィアにも魅力を感じた。「国際会議への参加を要請されるとき、開催地に未訪問の地が含まれていると、ついつい引き受けてしまいます」。10月中旬にはモロッコのマラケシュで開かれた国際会議に出席した。「会議の合間にリゾート地の雰囲気を味わえました」
 国内より海外の方が空き時間を作りやすい。ここでもキーワードは「ウオーキング」。歩きやすい革靴を履き、4~5時間かけて街の中をぶらぶら歩く。何の制約もなく、自分一人で過ごせる時間は貴重だ。知り合いが全くいないカフェでのひとときも楽しむ。
 手帳を持参し、何かをひらめいたら次々と書き込む。「今やっている仕事のことや、反省点。それが次の仕事への活力にもなります」
 音楽も元気の源だ。静岡の実家には大型のステレオがあり、クラシックの名曲がよく流れていた。知らず知らずのうちに音楽が好きになり、中学と高校ではブラスバンド部、大学では管弦楽団に入った。高校と大学ではトロンボーンを担当し、「練習に明け暮れる毎日で、勉強よりも熱心でした」。大学生のときはジャズ喫茶にもよく通い、本を読みながら2時間くらい過ごす日もあった。
 米国に留学する前後からはフルートを吹き始めた。40代になると楽器にはほとんど触らなくなったが、音楽を聴く習慣は変わらない。ヘッドホンを持ち歩き、暇を見つけては音楽を聴く。周囲の騒音をカットするノイズキャンセリング機能付きのものなどがお気に入りだ。
 「少し疲れているときはチャイコフスキーの曲。研究室や自宅以外の場所では、音楽を聴きながら原稿を書きますが、バッハやモーツァルトの曲がよく合います。自分の世界に入り込みやすくなるようです」。時間に余裕ができたら、また自分でも楽器を吹きたいと思っている。

前田裕之

井上昭義撮影

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