2019年5月26日(日)

高年俸いつまで…プロ野球、危うい"楽観体質"

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2012/12/20 7:00
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何億円という数字が飛び交う契約更改シーズン。景気のいいのは結構だが、一般の企業は長く続いた円高、株安などの影響で苦しんでいるところも多い。プロ野球だけ、こんな大盤振る舞いが続くのだろうか。プロ野球人気はそれほど盤石だっただろうか? 球団経営は右肩下がりなのに大丈夫かと不安が頭をもたげてくる。

広澤克実氏

広澤克実氏

古き良き時代の年俸闘争

現役時代、私は年俸闘争をほとんどしたことがなかった。最初に入団したヤクルトは家族的な経営で有名で、契約更改で保留する選手はほとんどいなかった。

そんな私が契約交渉を粘った年があった。1992年のオフだ。

91年に打点王となった私はずっと球団一の年俸をもらっていた。そして92年は野村監督の下、リーグ優勝を果たした年だ。チームリーダーで選手会長を務め、何年も弱いヤクルトをけん引してきたという自負があった。また「選手の評価は年俸」という考えもあり、「球団ナンバーワン」については譲れない気持ちが強かった。ところが、私の年俸を上回ろうという選手が現れた。古田敦也だ。

91年に首位打者のタイトルに輝くと、それから連続3割をマーク。その古田が推定1億2000万円で更改するという新聞報道を見た私は心中穏やかではなかった。当時の1億2000万円は球団史上最高金額であり、数年前に引退した若松勉さんの年俸を超えていた。契約交渉の時、席に座った私の前に提示された金額を恐る恐る見ると1億2000万円には遠く及ばない金額だった。逆転されるのか……。

あの頃は、あくまで推定の範囲であり、新聞報道も今ほど当たっていなかったので、私は、あたかも 古田の年俸は知ってるよ、とばかりに「今の金額だと古田より安いですね」と交渉の席にいた球団代表と査定担当部長に詰め寄ると、2人とも黙り込んでしまった。

やっぱり古田の方が上なんだ……。

私はプロ入りして初めて球団査定に抵抗した。「私は弱小球団のころから支えています。球団の顔は古田ですか? 古田より多くしてもらえませんか?」と声を荒らげると、査定担当部長が、「誰かと比較して年俸を決めるわけではない」と反論してきた。

球団代表の顔を見ると、査定担当部長の言う通りだ、みたいな顔をしていた。

この劣勢を挽回する材料はそれほどなかったが、絶対に上がるまで判は押さないと決め、徹底抗戦した。

1時間近く押し問答があり、私が「それでは今回は保留いたします」と言うと「何回来ても球団からの評価は変わらないし、金額も変わらない」と査定担当部長が言った。重ねて「君の将来のことも考えて行動を取るように」と脅迫じみたことを言うものだから一気に血液が脳に行き、身体が小さく震えた。

興奮を抑え、その場を立ち去ろうとした時、偶然、球団社長が入って来た。「長い時間かかってるが、何してるんだ」と問いかけられた瞬間、私は攻勢に出た。「情」に訴えたのだ。

「わかった、わかった、じゃあアップしてやるよ。その代わり、こんなことは今年だけだぞ」

社長が神様に見えた。代表と査定担当部長の顔を見ると苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。まるで、起死回生のホームランを打った感覚だった。もっとも、最初の提示よりアップしたとはいえ、まだ古田と並んだだけ。もののついでに「同額ではなく、10万円でも20万円でも古田より上にして下さい」とダメもとで言ってみると、社長が「わかった」と言うものだから、今度は代表と査定担当部長がともに拒否反応を起こした。「それはダメです」

ちなみにこの社長は相馬和夫という人で「黄金の左腕」を持つ、といわれた。荒木大輔、高野光、池山隆寛、伊東昭光、長嶋一茂、伊藤智仁など、ドラフトで指名が重複した選手を左腕でことごとく引き当てた人だ。もちろん、広澤もあの左腕で引き当てていただいた。

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