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日本人初の快挙、8000メートル峰14座登頂 竹内洋岳

日本人初の「14サミッター」となった竹内洋岳(右)。無酸素、シェルパを頼まないシンプルなスタイルを貫く

日本山岳界の悲願ともいうべき世界の8000メートル峰、最後の14座目を目指していたプロ登山家の竹内洋岳(ひろたか、41歳、ICI石井スポーツ所属)が26日、ネパール北部のヒマラヤ山脈のダウラギリ1峰(8167メートル、第7位)登頂に成功し、超人ラインホルト・メスナー(イタリア)以来、世界で29人目の「14サミッター」に、日本人として初めて名を連ねた。 

今年のヒマラヤは天候が不安定で、長くBC(ベースキャンプ=4700メートル)に停滞を余儀なくされたが、それから解放されるかのように、23日早朝、竹内洋岳とカメラマンの中島ケンロウが元気に出発した。

足かけ18年、世界29人目の快挙

途中C2(キャンプ2、6600メートル)からC3(7200メートル)に向かって6800メートルにさしかかったところ、中島が体調不良を訴え、チョー・オユーに続く登頂はならず、下山した。

竹内洋岳の8千メートル14座完登の道のり
マカルー1峰(8463メートル)1995年
エベレスト(8848メートル)1996年
K2(8611メートル)1996年
ナンガパルバット(8125メートル)2001年
アンナプルナ1峰(8091メートル)2004年
ガッシャーブルム1峰(8068メートル)2004年
シシャパンマ(8027メートル)2005年
カンチェンジュンガ(8586メートル)2006年
マナスル(8163メートル)2007年
10ガッシャーブルム2峰(8035メートル)2008年
11ブロードピーク(8051メートル)2008年
12ローツェ(8516メートル)2009年
13チョー・オユー(8201メートル)2011年
14ダウラギリ(8167メートル)2012年

ここからは竹内が単独で頂上を目指すことになった。C3に25日14時20分到着。山岳気象のスペシャリスト「ヤマテン」の猪熊隆之から「26日の風はこの数日でもっとも弱い状態になる」との朗報が入っていた。

竹内は順調に高度を稼いで26日についに頂上に立った。C3を午前1時半に出発し、頂上にたどりついたのが午後5時半。16時間がかりのアタックだった。14座目の頂上は風が強く、視界が悪かったという。

1995年のマカルー1峰登頂から足かけ18年、14座最後となるダウラギリ峰の無酸素登頂を果たし、感激もひとしおだろう。

もっとも、18年かかったといっても、竹内の意識のなかでは、2001年の4座目のナンガパルパットから彼の本来の登山が始まっている。

10人ばかりの国際公募隊に誘われて参加した。費用をシェアし、お互いをファーストネームで呼び合うフランクな関係に竹内は組織登山にはない喜びと自由を見いだす。

腰椎骨折の大事故などを乗り越え、快挙を達成した

ここで山岳会などの大がかりな組織登山と「離別」した。無酸素登頂も彼らのスタイルでは当たり前で、ここからすべて無酸素登頂となる。

オーガナイザーのラルフ・ドゥイモビッツ(50、ドイツ)は、竹内の実力をすぐに認めパートナーとして欠かせない存在となる。

彼らとパーティーを組む。「メールが来て、山が決まり、カトマンズでの集合日時だけで、それで出発」。ヒマラヤは遠いところでなく、来週行こうと思えば行ける山だという。そうして先鋭的登山に生まれ変わり、彼らの中でもまれて共通の目標が「14サミッター」となったのだ。

そのラルフは09年に達成、彼の妻のガリンダ・カールセンブラウナー(41、オーストリア)も昨年達成した。

「『征服』と言わないでください」

「14座を征服した竹内」と書きたいところだが、竹内はそれをよしとしない。

「征服などという言葉には、自然に対して人間の増長した気持ちが込められている。私はそんな気持ちで登っていない」と。だから、「頂上に立ったと書いて下さい」と真面目な顔で注文されるのだ。

「征服」という言葉は使わない。自然に対して人間が増長してはいけない、という(右が竹内)

冷静沈着、素直で純粋な心を持ち続ける面は冒険家植村直己のようである。半面、軽妙快活なブログにファンは多く、愛されるプロクライマーとして新しいスタイルを築いている。

シェルパも酸素も使わない少人数の先鋭的なスタイルは一度の遠征で複数の山頂を狙う「高峰継続登山」などを可能にしている。目指すのはよりコンパクトでシンプルな究極のスポーツ登山だ。

07年、10座目となるガッシャーブルム2峰の7000メートル地点で雪崩に巻き込まれ300メートル落下した。腰椎と片肺がつぶれ、肋骨も5本折れた。生還したのは奇跡と言うしかない。

志半ばで亡くなった先輩アルピニストや仲間、いろんな人の思いが「押し上げてくれた」

10座目は日本人にとって大きな壁となって立ちはだかっていた。最強のアルピニストといわれた山田昇、名塚秀二、田辺治が相次いで10座目にたどり着かず命果てている。竹内が、「14」をあえて意識するようになったのは、彼らの悔しさを引き継ぐ決意をしたこともある。

東京に搬送され入院1カ月。パートナーの2人も巻き込まれ亡くなったことで「なぜ私が生き残って彼らが死んだのか」と苦しみ抜いた。

300メートル落下の事故乗り越えて

翌年、「自分の心を拾い上げ、そこから一歩踏み出す」ために、再度、落下した同じ山に挑み、連続で11座目のブロードピークにも立っている。

頂上で相棒のフィンランド人のベイカー・グスファッソンと抱き合い号泣した。「私だけの登頂ではない。いろんな人が押し上げてくれた」という感謝の思いがこみ上げて山で初めて涙を流した。14座達成時も思いは同じだろう。

竹内の成功の陰には山岳気象を専門とする「ヤマテン」代表の猪熊隆之の存在がある。天候不順のため登頂予定が二転三転したが、「5月にこれだけ強いジェット気流が長く停滞するのは異例。当初の25日はおすすめできない」と判断。28日以降も考えられたが、それは「気温上昇によるルート崩壊等のリスクもある」ため、26日を選んだ。

その日は、強いジェット気流も弱まるという予想。ヒマラヤの天候をピンポイントで予報するその能力に、登山家の絶大な信頼が寄せられている。世界にも誇れる異能の二人三脚でさらにスピーディーで新たな冒険の世界が開けるだろう。=敬称略

(編集委員 工藤憲雄)

◇            ◇

冒険家・三浦雄一郎さんの話

2005年にエベレストで高所脳浮腫にかかったり、ガッシャーブルム2峰で雪崩に遭ったり九死に一生を得たが、めげずに頑張ってこの快挙に結びつけた。地球で最も危険なところで人間の肉体と精神の限界を超えながら14座完全制覇というグランドスラム達成は、見事というしかない。アスリートとして体力だけでなく頭脳明敏で分析能力もある。複雑きわまりないヒマラヤの難問を解きほぐしながら進んできた。この命懸けのスポーツをやりながらユーモアがあり、ひょうひょうとした自然体が好もしい。謙虚な人柄も外国の一流登山家に愛されている。すぐまた会いたくなる人物だ。日本の登山の歴史に大きなステップを残した。

 たけうち ひろたか 1971年生まれ、41歳。東京都出身。立正大卒。プロフェッショナルマウンテンクライマー。ICI石井スポーツ所属。身長180センチ、体重65キロ。祖父の影響を受けて幼少からスキーと登山に親しむ。高校、大学で山岳部に所属、登山の経験を積み、20歳でヒマラヤの8000メートル峰での登山を体験。95年にマカルーの新ルート、東稜(りょう)下部初登はんで頂上に。96年はエベレスト、K2の連続登頂などで力をつけ、2001年からは各国の少人数の国際隊を組み、酸素やシェルパを使わずにアルパインスタイルを積極的に取り入れた速攻登山で8000メートルII峰を攻略していった。しかし、07年のガッシャーブルム2峰で雪崩に巻き込まれ腰椎破裂骨折の重傷を負った。再起も危ぶまれたが、1年後に同峰に再び挑み登頂に成功した。

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