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イングランドサッカーで起きた「ムアンバの奇跡」

サッカージャーナリスト 原田公樹

この1週間で奇跡を2度見た。最初のそれは悲劇の最中に起こった。17日、サッカーのFA(イングランド協会)カップ準々決勝、トットナムの本拠地であるホワイトハートレーンで行われたボルトン戦。右ウイングとして先発したボルトンのFW宮市亮へのマークは、いつもと比べてそれほどきつくない。今日も何かやるかもしれない、と期待しながらその試合を見ていた。

ムアンバが突然倒れる

小雨が降り続くなか、1-1で迎えた前半41分。トットナムの攻撃に気をとられ、気づいたときにはボルトンの選手が1人、自陣側のピッチの上にうつ伏せに倒れていた。

「最初は肘打ちを食らったかなと思った」とトットナムのレドナップ監督は振り返ったが、誰もが同じように思ったはずだ。

だが、外傷によるものではない、と異変に気づいたボルトンの選手に続き、敵方のトットナムの選手たちも、ベンチ方向へ向かって「入って来い」と大きなジェスチャーを送った。

両チームのドクターやフィジオセラピスト、スタジアムの医療チームらが次々とピッチへ入って行く。さらに試合を見に来ていた、トットナムファンである1人の循環器専門医も警備員に自らの職業を名乗ってピッチへ下りていき、救命活動を手伝ったのだ。

心停止状態、懸命な救命措置

3万6000人のファンも固唾をのんで見守るなか、医療チームの1人が心臓マッサージを始めたとき、誰もが、事態の深刻さに気づいた。

心臓に電気ショックを与える除細動器が持ち込まれ、懸命な救命措置が続く。あとで分かったことだが、このとき倒れていたMFファブリス・ムアンバ(23)は心停止の状態だったという。

近くでその様子を見守る選手たちの表情も次第に曇っていった。力を無くして他の選手に寄り添う選手、しゃがみこんで手を合わせる選手。宮市は両手を頭に当て、顔をしわくちゃにしながら、目の前で起こっているショッキングな出来事を見守っていた。

スタジアム全体でムアンバコール

そのときだ。メーンスタンド右のコーナーフラッグ付近に陣取っていたボルトンのファンが「ファブリス・ムアンバ~!」とコールを始めた。すぐにトットナムのファンもそれに呼応し、そのムアンバコールの大声援はスタジアム全体を包んだ。次いで、拍手も湧き起こり、目の前で自らの生命と戦っているムアンバにスタジアム全体で声援を送ったのである。

つい数分前まで、互いに罵り、ヤジりあっていたというのに、事態を察したファンらは自然に敵味方関係なく、一つになってエールを送っていた。

胸が熱くなった。現代の奇跡である。私も願うように合わせていた両手で、拍手を送った。よく欧州では選手や関係者、メディア、ファンすべてをひっくるめて「フットボール・ファミリー」と呼ぶが、まさにそれだった。

様々な選手が回復を祈るメッセージ

約10分後、ムアンバは担架で運び出され、救急車で心臓発作の専門医療施設があるロンドン・チェスト病院へ救急搬送された。偶然にもピッチへ下りて救命措置を手伝ったトットナムファンのアンドリュー・ディーンナー医師は、その病院の医局長だったのだ。

その後の試合中止の決定は鮮やかだった。ウェブ主審と両チームの監督、さらにトットナムの主将パーカーが集まって協議。ウェブ主審は笛を鳴らして選手を控室に呼び戻すと、数分後には「この試合は中止になりました」と短くアナウンスが2度ほど行われた。

中止の理由はもちろん、払い戻し等の説明も何もないが、雨が降り続くなか、3万6000人の観客たちは速やかにスタジアムを後にしたのである。

その後も奇跡は続いた。マンチェスター・ユナイテッドのルーニーやリオ・ファーディナンドらが、即座にムアンバを見舞うメッセージをツイッターで投稿。同じピッチで悲劇を目の前にしたトットナムのファンデルファールトらも、すぐに回復を祈るメッセージをツイッターに投じた。

これに呼応するように世界中のサッカー選手やファンらが、ムアンバに「生きろ!」と声援を送ったのだ。

シャツに「PRAY 4 MUAMBA」

翌日のFAカップ準々決勝、チェルシー対レスター・シティー戦。今年1月までボルトンで主将を務めていたチェルシーのDFガリー・ケーヒルが先制点を決めた直後、ユニホームの下に着たシャツのメッセージを見せた。

「PRAY 4 MUAMBA」(ムアンバのために祈る)

こうしたユニホームを脱ぐ動作は通常イエローカードの対象になるが、プロバート主審は何らカードを出さなかった。

ムアンバ支援の輪は欧州中に広がり、各試合の前、ウオームアップのとき各選手たちは「GET WELL SOON MUAMBA」(すぐによくなれ、ムアンバ)「FABRICE!!! WE ARE BEHIND YOU」(ファブリス、あなたを支える)といったメッセージの書かれたシャツを着用。試合前には観客とともに応援の拍手を送ったのだ。

いまなお、ムアンバ支援の輪はさらに広がっている。

驚異的な回復

もうひとつの奇跡はムアンバの驚異的な回復である。ボルトンのチームドクター、ジョナサン・トビン医師はいう。

「ファブリスは倒れてから48分間と、さらに30分間は事実上、死亡していた」

合計で78分間も「死亡状態」にあったと、英国メディアの取材に対し明かした。それがいまでは家族や面会に来た人たちと適切な会話ができるまで回復したのだ。倒れてから3日後の20日、ボルトンのコイル監督は「会話した。まだ長い道のりが残っているが、前向きのサインだ」と語った。

選手として完全復帰できるかどうか、「判断するのは時期尚早」とコイル監督は慎重だが、一命を取り留めたのは間違いない。

なぜ生き返ったのか。これは初期の救命措置が迅速で適切だったからに他ならない。倒れてすぐに複数の医師や救急救命士が駆けつけ、懸命に蘇生を試みたからだ。

心臓マッサージを続けながら、人工呼吸に続いて酸素呼吸を行い、除細動器を使って機能しない心臓を正常に戻そうと試みたという。

トビン医師は「合計で15回、除細動器を作ってショックを与えた。ピッチで2回、トンネル(スタジアムの控室近く)で1回。さらに揺れ動く救急車のなかで12回行った」と振り返る。

しかし呼吸も心臓も戻らない。救急車に同乗していたディーナー医局長は「救命措置として万策尽きた。蘇生する可能性は少ない」と思ったという。約12キロ離れたロンドン・チェスト病院へ到着後、ディーナー医局長は「直ちに肩の下側を切開し、静脈から血液をかき出し、動脈にはショックを与えながら、薬を投与した」と語る。

9年前にはフォエが心臓発作で亡くなったが

こうした懸命の救急治療により、ムアンバは一命を取り留めた。ディーナー医局長は「もし誰もが一度だけ奇跡を使えるとしたら、私は今回、その権利を行使したことになる」と話した。

いまから9年前、2003年コンフェデレーションズカップ・フランス大会準決勝のコロンビア戦で、カメルーン代表のMFマルク・ヴィヴィアン・フォエが心臓発作で倒れて亡くなった。

あのときも私は現場にいたが、試合時の救急措置はかなり違った。実際、そのままフォエは競技場で亡くなり、続行された試合後、すぐにその訃報は伝えられた。

この9年間でトップレベルのサッカーの試合での救急医療の体制は、はるかに向上した印象だ。これもムアンバが一命を取り留めた要因の一つだろう。

救急医療体制を向上させようという動きが活発化

さらに英国では、この「ムアンバの奇跡」をきっかけにサッカーをはじめ、スポーツイベントでの救急医療体制を向上させよう、という動きが活発化してきた。

今夏、ロンドン五輪を控えていることも、この動きを後押ししている。五輪で、たとえ選手が試合や練習中に心臓発作を起こしたとしても、命を救える体制を作る方針だ。

また予防にも力を入れている。例えばプレミアリーグは、これまで2年に1度だった選手の心臓の検査の回数を半年に1回など、頻度を増やすという。さらに英国メディアは、心臓発作に関する啓蒙活動を始めた。

先日もこのムアンバの続報記事の最後に「突然の心停止と、心筋梗塞は違うことを知っておくべきです。前者は心臓が危険な鼓動を打つことにより、若くて健康な人にでも起こり得ます。心筋梗塞は、高齢者や不健康な生活を送る人が、動脈を塞がれることによって多く発症するものです」と書かれてあった。

すぐにAEDを使えば一命を取り留める可能性

心停止と心筋梗塞が違うとは、どういう意味か。いまひとつ理解ができないので、日本で循環器内科の医師として働く同級生に聞いてみた。

「一般的には心臓発作というが、この記事の通り、不整脈による心室細動もしくは心室性頻拍と、心筋梗塞は別ものです。ただし合併症のケースもあるので、一般的には混同している人が多いのが現状でしょう。日本で自動体外式除細動器(AED)は普及しているけれど、一般の人でこの違いを知っている人は少ない」

さらに続けて「心室細動を起こした場合、通常、AEDなどの機械で電気ショックを与えなければ、心臓は正常には戻らない。また急性心筋梗塞の場合は心臓カテーテル手術や、胸を開けてバイパス手術を行うこともある。若い人が急性心筋梗塞を起こすのはまれです」と説明してくれた。

つまり健康な若いスポーツ選手が、突然、試合中に心臓の疾患で倒れた場合は、不整脈による心室細動などの可能性があり、すぐにAEDなどで電気ショックを与えれば、一命を取り留める可能性が高い、というわけだ。

あらゆる人たちが努力

ところで、心臓を押さえて倒れている人を見て、その人が心室細動なのか心室頻拍なのか、それとも心筋梗塞なのか、見分けはつかない。

AEDを使ってもいいかどうか、どうやって判断するのか。同級生の医師は「それはAEDが判断してくれます。心筋梗塞を起こした人に使っても構わない。指示に従ってボタンを押すだけでいい」と解説してくれた。

もし心臓発作などの急病人を前にしたとき、素人ができる救命措置で、まず大事なのは、助けを呼び、胸骨圧迫による心臓マッサージを続けることだという。

「救急車や助けを呼んで、次いで胸骨を圧迫して心臓をマッサージし、脳に血を送り続けること。それと並行してAEDを持って来てもらい、すぐに使えば、救命率は格段に上がる」と同級生の医師は力説する。

ムアンバは2つの奇跡によって命を救われた。いまこうした奇跡が当たり前に起こる世の中にしようと、あらゆる人たちが努力を重ねている。

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