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フォーム、高校で改造・成長 埼玉・牧田和久(中)

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2012/2/4 7:00
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静岡県焼津市の公立中から藤枝市の静清工高(現静清高)へ。野球部に入部した当初の牧田和久は、体も細身で目立つ存在ではなかったという。同校野球部の藪崎雄大部長は「とにかく寡黙でおとなしい子という印象だった」と振り返る。

■高校時代の監督が手首の強さに目を付ける

スリークオーター気味だった投球フォームをアンダースローに変えるよう指示されたのは高校1年の秋。その理由を、本人は「同学年に140キロを投げる投手がいた。うちの高校は毎年、(2番手として)打者の目先を変える技巧派を用意していたので」と推し量る。

だが、藪崎の見方は違っていた。キャッチボールやランニングでの柔らかい身のこなし、手首の強さに目を付けた。

「球の速い子はほかにいたが、野球センスは牧田のほうがあった。下半身もできてきて、下手にしたら伸びしろがある」と考えた。ブルペンで試しに投げさせると、ソフトボールの投球のようにホップする球筋。藪崎は確信する。「高めの直球だけで勝負できるな」。豪腕の1番手に押し出されての転向ではなかったわけだ。

■甲子園には縁遠かったが…

牧田は新しい投法をひょうひょうと受け入れた。「下手はプロにもいないから面白いかな」くらいの気分で取り組んだが、練習試合で自信を深めると著しい成長を示した。

当時の投球は、緩急を身上とする今のスタイルとは異なるもの。「緩いボールは見たことがない。力任せに直球を投げ込み、いつも2桁三振を取っていた」。藪崎の回想だ。

主戦に定着した2年秋には東海大会に出場したが初戦で敗れた。3年夏の静岡県大会は練習中に打球を受けた影響で調子を崩してベスト16で敗退。甲子園には縁遠かったが、この県大会で進学先となる平成国際大の大島義晴監督に見初められている。

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