2019年5月21日(火)

届かぬ被災地の声、支援阻む「情報断絶」
震災1カ月で課題が露呈 16年前の教訓生かせず

(1/6ページ)
2011/4/16 7:00
保存
共有
印刷
その他

震災から1カ月が過ぎ、政府は「復興構想会議」の設置を決めた。だが被災地の時間は、すべてを飲み込んだ黒い水が引いたあの日から止まったままのように見える。

津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町の志津川地区

津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町の志津川地区

震災3週間目あたりから宮城県内の被災地を歩いた。自衛隊などの努力で命をつなぐ主要道が通り、家屋の約8割が流された南三陸町では真新しい電柱が立てられつつある。だが、中心部の志津川地区は見渡す限り何もない。町役場の防災施設は鉄骨がむき出しのまま無残な姿をさらしている。破壊された道路や堤防、横転したクルマ、思い出の品がぐしゃぐしゃにこねられた大量のがれき。暴力的な破壊の爪痕がほぼ手つかずで残る。

酸鼻を極める光景は三陸海岸を中心とする太平洋沿岸の500キロメートルにわたって数千カ所に広がっており、1つだけの風景を切り取ることは意味をなさないように思える。日を追うごとに、人々に勇気と感動を与えるような、あるいは希望の萌芽を伝えるような美談を耳にすることも増えてきた。だが、それも何万分の一、何十万分の一の「点」に過ぎない。

南三陸町にて。こうした光景は三陸海岸のいたる箇所に続く

南三陸町にて。こうした光景は三陸海岸のいたる箇所に続く

4月15日時点で約2430カ所の避難所に、依然として約13万8000人もの被災者が身を寄せている。5月初旬までに完成する仮設住宅は計画のわずか6%。ライフラインが断絶されたまま暮らす自宅避難者や身内宅に疎開する被災者の数は、行政もメディアもボランティア組織も誰も把握できない。しかも個々の事情は刻一刻と変化している。

いまだ「面」でとらえきることができない未曽有の事態が横たわる被災地。分かったことと言えば、16年前の教訓がふたたび頭をもたげ始めたということだ。

■人と物が集まる南三陸町最大の避難所

恵まれている避難所と、そうではないところがある。いつの災害時も、物資が行き届くようになる1カ月を過ぎると、そうした話が聞こえてくる。前者を象徴するのが、南三陸町最大の避難所「総合体育館(ベイサイドアリーナ)」だ。一時は1500人もの被災者がいたが、集団移転や自宅避難が進み、14日時点で約500人と徐々に減っている。

南三陸町最大の避難所、ベイサイドアリーナではボランティアによる炊き出しや衣料品の配布が連日行われている

南三陸町最大の避難所、ベイサイドアリーナではボランティアによる炊き出しや衣料品の配布が連日行われている

南三陸町の中心部から北の山間部へクルマで10分ほど走ると、無傷の山あいに巨大施設が見えてくる。訪れたのは4月5日~7日で、700人ほどが寝泊まりしていた。日中は自宅避難者やボランティアなどがひっきりなしに訪れるため、人数はさらに増える。

250台収容の駐車場は満杯で、奥のグラウンドまでクルマで埋め尽くされている。さらにその奥は自衛隊の車両やヘリコプターの基地となっており、メーン施設の玄関前では連日、全国から参集したボランティアらによる炊き出しが行われていた。

玄関前にはニュースを映す大型LED(発光ダイオード)モニターを搭載した車両が止まり、夜間は照明車が入り口付近を煌々(こうこう)と照らす。館内も、東北電力の電源車によって20時30分までは明かりがつき、消灯後も非常灯は保たれた。15日午後には施設内の電気が復旧している。

イスラエル軍が設置した医療センター。11日に撤退したが施設は寄贈された

イスラエル軍が設置した医療センター。11日に撤退したが施設は寄贈された

駐車場の一角にはイスラエル軍が3月29日に設置したプレハブ6棟の大規模な診療所が軒を連ね、エックス線や超音波を使った検査機器など約100点と約50人の軍医・看護師がそろっていた。4月11日に撤収したが、施設は寄贈された。京都府消防局や仙台社会保険病院、宮城県歯科医師会などの医療バスもところ狭しと止まっており、メーン施設内部にも大規模な診療所がある。

震災当初は、自衛隊による最小限の物資しか届かなかった。だが、道路がつながると徐々に避難者の生活環境は改善された。

■ウルトラマンショーで被災者に久しぶりの笑顔

3月18日には山形県庄内町による豚汁に餅を入れた「つゆ餅」2000人分の炊き出しが始まり、19日にはNTTドコモが移動基地局車によってFOMA回線を復旧させた。21日には、自衛隊が約40人が入れる仮設風呂を設置し、垢(あか)を落とせるようにもなった。

その頃から1日3食が全員に安定して振る舞われている。例えば4月9日のメニューは朝食がサンドイッチにカップケーキ1個と豆乳いちご。昼食がおにぎりにしゃけフレーク、切り干し大根、りんご。夕食が自衛隊による炊き出しご飯にマカロニサラダ、ほうれん草と人参のゴマ和え、漬け物、味噌汁といった具合だ。

避難所を慰問し被災者を激励する元プロ野球選手の清原和博さん(左手前から2人目)、大相撲の九重親方(同3人目)ら=10日午後、宮城県南三陸町=共同

避難所を慰問し被災者を激励する元プロ野球選手の清原和博さん(左手前から2人目)、大相撲の九重親方(同3人目)ら=10日午後、宮城県南三陸町=共同

東北自動車道が全線開通した3月23日の翌週末からは遠方から訪れる人がさらに増えた。4月2日は千葉県松戸市から訪れたグループが根菜のたっぷり入ったけんちんうどん約1000食を提供し、10日には被災地支援のための「ウルトラマン基金」によるショーが開催された。元プロ野球選手の清原和博さんや大相撲の九重親方(元横綱千代の富士)も顔を見せ、握手会やサインボールで被災者を喜ばせた。

賑わいを見せるベイサイドアリーナ。一方で、震災から1カ月たっても、光のあたらない避難所があった。

■廃墟と化した魚市場や水産加工工場の先に

沿岸部の住宅密集地や水産加工施設などが壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市。15日現在で死者・不明者は5520人。約1万4000人が市内119の避難所で生活を送っている。そのうちの1つ、石巻市立渡波中学校に設置された避難所は、暗く不自由な日々を余儀なくされていた。

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 次へ
保存
共有
印刷
その他

電子版トップ



[PR]

日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報