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野村克也さん 捕手・4番・監督の3役こなした元祖鉄人
スポーツライター 浜田昭八

2010/6/13 7:00 (2020/2/11 12:06更新)
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2009年10月、クライマックスシリーズ敗退で最後の指揮となり、スタンドに手を振る楽天・野村克也監督(札幌ドーム)=共同

2009年10月、クライマックスシリーズ敗退で最後の指揮となり、スタンドに手を振る楽天・野村克也監督(札幌ドーム)=共同

元広島・衣笠祥雄、阪神・金本知憲ら、球界に「鉄人」は多い。だが、この人こそ「元祖鉄人」と呼ぶにふさわしい。独特のボヤキ節で人気を博している、野村克也前楽天監督である。

■さん然と輝く3017試合出場

2019年3月、インタビューに答える野村克也さん=共同

2019年3月、インタビューに答える野村克也さん=共同

捕手だった現役時代の"労働量"が、それを証明する。今も日本プロ野球最多記録として残る3017試合出場。2位は王貞治(元巨人)の2831試合だから、日本プロ野球界で3000試合出場を果たした唯一の人物なのだ。

試合出場のランキング上位者には、外野手や一塁手が多い。それだけに、重い防具をつけてしゃがんでプレー、クロスプレーでケガも多い捕手が作った3017試合の日本記録はさん然と輝く。現役捕手では中日・谷繁元信(39)が野村を追っているが、まだ2500試合に届かず、抜くには4、5年はかかる。

労働の"質"も飛び切り優れていた。南海時代は守りの要だっただけでなく、4番打者で奮闘した。1965年には打率3割2分、42ホーマー、110打点で2リーグ分立後、初の3冠王。この年を含めて8年連続本塁打王、6年連続打点王にもなった。

1970年4月、通算450本塁打を放つ南海・野村克也選手(後楽園球場)=共同

1970年4月、通算450本塁打を放つ南海・野村克也選手(後楽園球場)=共同

■入団当初は「壁」程度の認識

さらに、70年から8年間、監督を兼任した。捕手、4番打者、監督の一人3役を続けた肉体的、精神的たくましさは類を見ない。しかもこの間、ケガで83試合出場にとどまった74年以外は、毎年100試合以上に出場した。

「テスト生上がり」という経歴が、この鉄人の出世を際立たせた。54年に京都・峰山高から南海のテストを受けて入団した。球団は「壁」と呼ぶブルペン捕手を採用した程度の認識だった。

1973年10月、南海がリーグ優勝し、選手やファンに胴上げされる野村克也監督(西宮球場)=共同

1973年10月、南海がリーグ優勝し、選手やファンに胴上げされる野村克也監督(西宮球場)=共同

1年目に大差がついた9試合に出場したが、11打数ノーヒットに終わった。そのオフには解雇を宣告された。だが、母子家庭で育ち、背水の陣でプロ入りしたので、1年でおめおめと帰郷できない。球団に泣きついてチームにとどまった。

■3年目の春季キャンプが飛躍のきっかけ

お情け残留だったので努力はした。遊び回る僚友に目もくれず、必死に練習した。3年目の56年春のハワイキャンプのメンバーに選ばれたのが、スターへの道を開いた。ベテラン筒井敬三を高橋ユニオンズへ譲渡、主戦捕手松井淳に衰えが見えていたのが、野村に幸いした。

後継者候補は野村より2歳上の小辻英雄。野村は練習補助要員のような形のハワイ行きだった。国内残留組に首脳陣がほれこんでいる大型捕手がもう一人いたが、打撃練習で頭部死球を受けて後継者争いから脱落した。

ハワイでは松井が右肩を痛め、小辻は伸び悩んだ。練習試合では野村の出番が多く、ここを逃さず存在をアピールした。帰国後、鶴岡監督に「ハワイでの収穫は、野村に使えるメドがついたことだけ」と言わせた。

■「考える野球」を推進

この年から77年まで、ほぼ一人で南海の本塁を守った。一人3役の兼任監督時代には元僚友のブレイザーを参謀に迎え、「考える野球」を推進した。根性野球の色濃い球界に、知的な面白さを呼び込んだ。

この功労者の南海からの去り際は寂しかった。現夫人との交際を巡り、公私混同と糾弾された。このときの無念が、この後も長く続く野球生活のエネルギーになった。

インタビューに答える野村克也さんと妻沙知代さん(1993年6月)=共同

インタビューに答える野村克也さんと妻沙知代さん(1993年6月)=共同

南海退団後、ロッテで1年、西武で2年の"一兵卒"時代を送り、80年に引退した。控えでベンチに座る3年間はつらかったが、のちに改めて監督をするのに格好の勉強期間になった。

90年にヤクルト監督に迎えられたあと、阪神、楽天で指揮を執った。途中にシダックスを率いて社会人野球にも足跡を残した。2009年に楽天監督を辞任する前には、自らは続投を強く望んだ。まさに"野球が命"の鉄人である。

1993年11月、ヤクルトがプロ野球日本一になり、ナインに胴上げされる野村克也監督(西武球場)=共同

1993年11月、ヤクルトがプロ野球日本一になり、ナインに胴上げされる野村克也監督(西武球場)=共同

1998年10月、阪神の監督就任会見で握手する野村克也さん。左は久万俊二郎オーナー、右は高田順弘球団社長(大阪市内のホテル)=共同

1998年10月、阪神の監督就任会見で握手する野村克也さん。左は久万俊二郎オーナー、右は高田順弘球団社長(大阪市内のホテル)=共同

2009年4月、監督通算1500勝を達成し、田中将大投手(右)からウイニングボールを受け取る楽天・野村克也監督=共同

2009年4月、監督通算1500勝を達成し、田中将大投手(右)からウイニングボールを受け取る楽天・野村克也監督=共同

2019年7月、ヤクルトOB戦終了後、ファンにあいさつする野村克也さん(中央、神宮球場)=共同

2019年7月、ヤクルトOB戦終了後、ファンにあいさつする野村克也さん(中央、神宮球場)=共同

金田正一さんのお別れの会に参列し、王貞治さん(左から2人目)にあいさつする野村克也さん(1月)=共同

金田正一さんのお別れの会に参列し、王貞治さん(左から2人目)にあいさつする野村克也さん(1月)=共同

のむら・かつや 1935年京都府出身。54年峰山高から南海へテスト入団。80年まで3球団に在籍27年。打率2割7分7厘、657本塁打、1988打点。首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回。65年三冠王、MVP5回。4球団で監督を務め、選手兼任の南海で優勝1回、ヤクルトで優勝4回、日本一3回。

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